無限の数学
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
暗いところも、狭いところも、
「よく似た環境」
というところから、
「同じレベルで、恐怖を感じるものだ」
といってもいいのではないだるおか?
というのは、どちらも、
「お化け屋敷」
であったり、
「サイコホラー」
と似たようなものだということを考えさせられるということではないかという発想からではないだろうか?
特に、昔の木造日本家屋などのトイレなどというと、昔から、
「恐怖の巣窟」
とでいうような伝説があったりする。
ただ、これは日本だけに限ったことではなく、西洋のお城であったり、古い洋館であったり。
さらには、
「墓地」
などは、
「棺桶の中から、恐ろしい化け物が出てくる」
ということで、恐怖だったりするだろう。
特に、昔は、土葬という習慣があったことから、ミイラであったり死んでから、それほど時間が経っていなければ、
「蘇生したものなのか、幽霊なのか?」
ということで、
「恐怖を感じさせられることも少なくない」
というものである。
西洋であれば、
「ドラキュラ」
であったり、
「フランケンシュタイン」
であったりと、恐怖物語があるというものである。
そのほとんどが、西洋の城であったり、洋館であったりすることから、イメージが、
「暗いところ」
ということであり、
狭いところとしては、
「棺桶の中」
というようなところが恐怖と感じさせるところもあるというものだ。
昔の探偵小説などで、たまにあったのが、
「復讐に命を懸けている」
という男がいるとして、その男がどのような犯罪を企てるのかというと、
「これほど、恐ろしい企みはない」
というほどなのではないだろうか。
というのも、その一つとして、
「どこかの狭いところに押し込めて、すぐには死なないようにする」
というやり方だったりする。
たとえば、
「仮死状態にしておいて、途中で蘇生するような薬を飲ませて、蘇生した時には、棺桶に詰められて、土の中」
ということであった。
これが、どれほど恐ろしいということになるのだろうか?
「もうダメだ」
と思っても、死ぬこともできない。
つまりは、自殺をしようとしても、自分を殺す道具もなければ、その広さもない。食料が尽きて、水もなくなる。
そのうちに、息ができなくなって、苦しみながら、
「徐々に徐々に死んでいく」
という実に恐ろしいものである。
分かり切っている、
「死」
というものに対しての恐怖を、迫りくる状況で、どうすることもできず、恐怖から、
「髪の毛は真っ白になり、まったく別の人間に変貌してしまった」
ということで、
「そこから犯罪が起こる」
という。
「これ以上ないというほどの恐ろしい犯罪になる」
ということを、小説にするというのは、
「恐怖小説としては。これ以上の名作はない」
というものになることであろう。
「これが恐怖だ」
と分かっていても、それを自らで文章にするということほど、恐ろしいことはないであろう。
ということだ。
それを考えると。
「閉所」
と、
「暗所」
それぞれに、
「似て非なるもの」
というのは、本当のことなのではないだろうか?
それに比べて、
「高所恐怖症」
というのは、
「確かに、高所恐怖症という人は多いが、閉所恐怖症や、暗所恐怖症のように、冷静に考えると誰もが感じること」
ということになるのではなく、
「高いところも、怖くない」
という人も多いということなのではないかと考えるのだ。
狭いところや暗いところは、人間の本能的に怖い」
ということを感じるのだが、
「高いところ」
というのは、
「自分が、以前高いところから落ちた」
というような経験があるということから、
「高いところが怖い」
という潜在意識として感じるものだといえるのではないだろうか。
ただ、その割には、
「高いところから落ちたという経験はないのだが」
という人も、高所恐怖症だったりする。
実際に、高いところから落ちたという経験をしたことがある人が、
「本当にそこまでたくさんいる」
といえるのであろうか。
それを考えると、
「高いところから、どのように怖いということを感じるのかというと、やはり暗さや狭さというよりも、何が怖いのかを考えると、経験がないと分からないこと」
と考えられる。
そうなると、考えられることとして、
「遺伝子の影響なのではないか?」
といえるのではないか?
ということであった。
つまりは、
「今の自分が経験したことではなく。ご先祖様の誰かが経験したという恐怖体験であったりしたものが、遺伝子というものによって、自然と受け継がれてきたものだ」
と考えると、ありえないことではないといえるのではないだろうか。
実際に、恐怖体験であったりしたことであったり、前世の記憶というものが、そういう問題であったりと考えると、
「遺伝子の影響」
というものと、
「見たことがないはずなのに、どこかで見たというような意識が思い出される」
というような、
「デジャブ現象」
などというものが、
「そういう現象から、証明できるのではないか?」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、科学では証明されていないが、
「何かの絵で見た思い出と、実際に潜在意識で見たことがある記憶との狭間で、自分の記憶の辻褄を合わせようとして、見たこともないはずのものを、前に見たことがあるというような感覚にすることで、自分の中だけで納得させるために、ウソの記憶を作り上げた」
という理屈だと考えると、
「別に、間違っていない」
と思うことで、
「自分だけが信じていればいい」
というつじつま合わせをすることで、
「まわりの辻褄を合わせることが、真実ではない」
ということであり、
「事実を無理矢理に真実にしてしまう」
ということはない。
と考えられるのではないかということであった。
だから、
「遺伝子」
という発想も、ある意味、
「勝手な妄想を、辻褄合わせとして自分に納得させればいい」
ということから出来上がった現象で、
「その辻褄合わせが、いずれは、まわりが信じてくれる」
という感覚から、これも自分を納得させようという、
「一種の理屈」
ということになるのであろう。
それを考えると、
「高所恐怖症」
というのも、かつての、
「先祖であったり、前世であったりの記憶が、自分には残っている」
ということだと考えると、
「他の意識を遺伝子というものの影響だということを納得させるということのために、高所恐怖症であったり、他の恐怖症も、辻褄を合わせるために、無意識に、自分を自分が利用しているということなのかも知れない」
といえるのではないだろうか。
そういう意味では、
「高所恐怖症」
と、
「それ以外の二つの恐怖症」
というのは、大分類としては、分けることができるというもので、その小分類として、今度は、
「閉所と、暗所」
ということになるのであろう。
恐怖というものを考えた時、
「明らかに、高所だけは意識して考えることだ」