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なんちゃって犯罪

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「不満というよりも、恨みと言った方がいいかも知れない」
 生活保護を受けている人は、
「仕事がしたいのに、できない」
 という人たちのための制度であるはずなのだが、中には、生活保護費を、
「不当にもらっている」
 という人もいるという。
 それを考えれば、本当に生活保護をもらうべき人たちまで、白い目で見られ、しかも、
「仕事をしたいのにできない」
 というのは、
「身体障害を、事故か何かで患ってしまった人」
 であったり、
「会社に勤めていて、ハラスメントなどにあって、精神疾患を患い、ドクターストップを受けるようになった人から見れば、これほど理不尽なことはないと思うに違いない」
 ということである。
 何といっても、
「社会が悪いから、働きたくても働けない」
 ということになる。
 それこそ、
「どうして、この俺だけ」
 と思うのも無理もないことだ。
 実際に、その人を奈落の底に叩き落した人間は、ぬくぬくと仕事をしているのだから、これ以上の理不尽はないというものだ。
 今の時代は、そんなことがまかり通ってきて、ここ 20年くらいというところで、
「今になって、コンプライアンス違反だということになる」
 ということであった。
 そんな彼らとすれば、
「世の中を恨むな」
 という方が無理というもので、しかも、そんな、
「生活保護」
 という立場を利用して、金をせしめるという、とんでもないやつが現れたことで、
「一番の被害者は俺たちだ。ただでさえ苦しんでいるのに、これ以上何で俺たちが苦しまなければいけないんだ」
 ということになるのである。
 これは、
「受動喫煙禁止法」
 というものにも言えることで、
「そんな状況になってまで、愛煙家というのはいるのだが、彼らは肩身の狭い思いをしている」
 ということである。
 それなのに、そんな中に、
「ルールを守らずに、今までの立場を盾に、文句を言って、やりたい放題にしている連中を見ていると、ルールを守っている人たちまで、白い目で見てしまう」
 ということが、まかり通ってくるのだ。
 だから、
「ルールを守らない連中に対して一番腹を立てているのは、実は、ルールを守って吸っている、愛煙家たちではんあいか?」
 と言われるもの、無理もないことであった。
 生活保護者も、大多数が
「不当給付」
 というものを受けている連中に対して、真面目にやっている人が一番腹を立てるというのは、それこそ、
「道理に合っている」
 といってもいいであろう。
 生活保護の状態で、
「覗きをやっている」
 などというのは、本当であれば、
「ずるい」
 と言われても仕方がないだろう。
 しかし、
「覗き仲間」
 とすれば、そこで差別をしようという気持ちにはなれない。
 どちらかというと、
「覗き仲間という感覚が余計な偏見を持っているような気がする」
 ということで、
「来る者は拒まず」
 という意識から、相手がどんな人であれば、仲間になりたいと思えば仲間なのだと思っているのだった。
 きっとその感覚は、
「皆それぞれに、仲間意識が少しでもないと、寂しい」
 という気持ちであったり、孤独感が、自己嫌悪を払しょくさせるという感覚になるのだろうと感じるのであった。
 皆、
「自分だけではなく、皆、何かの正当性を見つけるために、共通点であったり、仲間意識というものだけを必死でつなぎとめるという意識を持っていないと、自分だけでは持たない」
 という思いが強いのではないかと思うのだった。
 そんな中において、いつの間にか、皆の中でそれぞれに仲間意識が出来上がっていて、その分、
「自分たちで、相性がぴったりだと思う人が決まってくる」
 というものであった。
 それは、
「他の人とは違う」
 と思いながらも、そこに罪悪感のようなものが秘められていることで、余計に、つながりの強さを求めようという気持ちから、惹きあうものを感じたいという思いから、罪悪感が、余計に、仲間意識を高めるという、
「捻じれた感情」
 というものが浮かんできていると思うのであった。
 だから、それぞれに行動も自然とペアが出来上がっていて、
「俺たちは、覗きをする中で、お互いに逃げることのできない十字架を背負っているんだ」
 という感覚があるということであろう。
 さすがに、
「十字架」
 というものをいかに背負うのかということを考えると、今度は、
「覗かれる方にも、こちらの正当性を保たせるだけの、信憑性のようなものを抱かせるというのは、無理のあることであろうか?」
 と考えられるのであった。
 何といっても、覗きをしていると、
「相手は覗かれたいと思っている」
 という、皆が感じている共通点について、実は、皆が一堂に返して考えたことではないのだ。
 というのも、
「皆それぞれで考えていることを、皆の前で披露することを、皆心のどこかで拒否しているのではないか?」
 といってもいい。
 あくまでも、言い訳になってしまいそうな感情は、
「皆で共有するよりも、一番相性が合う人と共有するのが一番だ」
 ということであった。
 それは、
「考え方が似ている」
 という感覚とは少し違い、
「似ているということが、共通点という意識と同じなのかどうか?」
 という考えとは、一線を画した考えではないか?
 といえるのではないだろうか?
 ということで、
「その日も、
「公園内で、それぞれが、他のペアを邪魔しようとさえしなければ、あとの行動はあくまでも、
「自己責任」
 ということになる。
 しかも、その自己責任というものを、犯罪がらみで、
「一人で負う」
 ということに恐怖を感じるということで、
「仲間がいて、その仲間と分かち合える」
 ということであれば、嫌ではない。
 昔の軍隊などでは、よく、
「連帯責任」
 ということで、
「規律を守ったり」
 あるいは、
「士気を高める」
 ということのために、必要だといえるのかも知れないが、裏を返せば、
「最初から責任を一人で負う」
 ということにしてしまうと、そのプレッシャーから押しつぶされることになるだろう。
 しかし、最初から、
「連帯責任」
 というのが、
「当たり前ということだと考えれば、そこに、無理のない考えが生まれる」
 ということになるであろう。
 何といっても、
「連帯責任だ」
 ということにしてしまえば、罰則のやり場に困ることはない。
 もし、教育の一環とまでしなければ、
「連帯責任」
 というのは、結局、
「何よりも、追い詰める」
 という考えに至るということに違いないというものではないだろうか?
 それを考えると、
「二人一組」
 で行動していると、他の仲間の口を割るというようなことはしない。
 さすがに警察としても、
「覗き」
 という程度で、昔の警察のような、拷問めいたことをするわけもなく、
「ある程度の時間我慢できさえすれば、無罪放免ということになり、その時はなかったことにできる」
 ということも可能であろう。
 もし、そこで警察の口車に乗って、自白でもしてしまうと、そこから、
「覗き集団」
 というものが秩序ごと壊れてしまうということになる。
作品名:なんちゃって犯罪 作家名:森本晃次