都合のいい免罪符
と考えるようになった。
それは、
「考えることが無意味だ」
ということではないことに間違いはない。
ただ、
「無意味ということに意味がある」
と考えるようになったのも、無理のないことだったのだ。
そう考えることで、自分が、まるで最初に、その公式を見た時に戻ったかのようにい感じると、その感覚は、
「タイムリープ」
と呼ばれるものに似ていた。
「タイムリープ」
というものは、誰もが一度は考えるものとして、
「人生をやり直せるとすれば、どこからやり直したい?」
という時に考えられるものとすれば、
「過去に戻るアイテム」
として、
「タイムマシン」
であったり、
「ワームホール」
というものが、あるというではないか。
どちらも、
「タイムスリップ」
という現象に対してのもので、
「タイムマシン」
というのは、人間が作為的に作り出したものであり、
「ワームホール」
というのは、自然界において、出来上がったものだといえるものであった。
それぞれに、
「時空の歪み」
というものを利用して、
「時空を飛び越える」
という発想になるのだが、それは前述のように、
「距離的な移動ができるものではなく、あくまでも、時間のみを超えるものだ」
という発想であった。
そして、この際の、
「タイムスリップというものと、タイムリープとの違い」
というものがどういうものなのかというと、
「タイムスリップ」
というのは、
「自分の身体も精神も、、タイムマシンのようなアイテムを使って、飛び越える」
という発想にいなる。
しかし、
「タイムリープ」
というものは、あくまでも、
「自分が、どの過去の部分に戻りたいか?」
という発想から生まれたものなので、その範囲は、あくまでも、
「自分というものに限られる」
ということである。
つまりは、
「今の意識を持ったまま、過去や未来の自分に乗り移る」
というものである。
だから、
「タイムリープというのは、乗り移ることができる自分という範囲に限られる」
ということになる。
だから、
「タイムリープ」
においては、最初から、
「無限というものは考えられない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「本来であれば、タイムマシンというものを開発されるのが本当なのだろうが、無限というものがネックになっているのであれば、人間の限界というものは、タイムリープでしかない」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「今の時代において、タイムマシンが開発されない理屈も分かる気がする」
ということになる。
そして、ロボット開発においては、逆に、
「フレーム問題」
というものがネックになっていると考えすぎるあまり、せっかく
「無限では解決できない」
ということを意識としては分かっているにも関わらず、そこから一歩先を見ることができないということで、
「ロボット開発」
というものも、行きつかないのだ。
といえるのではないだろうか?
「百里の道は九十九里を半ばとす」
ということわざがあるが、これを、
「逆も真なり」
と考えるとするなら、
「石橋を叩いて渡る」
という考えが、却って、
「自由な発想」
というものを妨げているのではないか?
と感じるのであった。
「タイムリープ」
というものが、
「1+1=2」
という簡単ではあるが、理解するには難しいというものを乗り越えるために必要なのは、
「一周回って、発想を豊かにするしかない」
ということを、二宮は感じた。
他の人のように、
「何も疑問を感じずに、こんなものだ」
と考えることができれば、
「どれほど楽だ」
ということになるということなのだろうか?
そこに、二宮少年が疑問を抱いたことで、遠回りにはなったが、そこで、
「遠回りではあるが、一周回ってすべてを見る」
ということで、
「ものには、限界というものがある」
ということを感じることができたということで、彼をそののち、
「彼は天才なのではないか?」
と言われるように仕向けたということで、二宮少年は、
「最初のステップ」
というものを乗り越えたということになるのだろう。
次のステップが乗り越えられるのかどうか、それは、何とも言えないということであり、二宮は、自分では、
「乗り越えられなかった」
と思っているのであった。
そんな状態で二宮は、
「一度、疑問を抱いて、そこに図らずも、無意識のうちに理屈めいたものを感じると、そこから先は、今までの遅れを取り戻すくらいは、なんでもないことであった。
今までは、どの科目も納得いかないということで、成績は最悪だったのだが、一つに辻褄という理屈が、歯車として噛み合うようになると、すべての科目についても、理屈が分かってくる。
「算数だけではなく、国語も理科も、社会も、辻褄が合ってくる」
ということで、成績もよくなってきた。
学校の先生は、
「私立の中学に行けばいい」
ということをほのめかしてくれたし、親も、
「ここまで成績がよくなったんだから、私立の中学に行っても構わない」
といってくれた。
それだけ、
「勉強に関してはどうしようもない」
という息子が、いきなり成績がトップクラスになったのだから、息子が望めば、
「私立に行く」
ということくらい、
「叶えてやりたい」
と思うのも、当たり前というものだった。
だが、二宮は、
「私立中学にはいかない」
と思っていたようだ。
というのは、二宮少年は、理屈が合わなければ、納得しないタイプということもあり、性格的に、
「石橋を叩いてでも渡らないタイプ」
ということである。
これも、言葉としては面白く。
本来であれば、
「石橋を叩いて渡る」
というのが本来のことわざであるが、二宮の場合は、
「石橋を叩こうとも、叩くまいとも渡らない」
ということであり、
「石橋は叩くが渡らない」
という意味ではない。
それこそ、
「情けは人のためならず」
ということわざに似たところがあるという意味ではないだろうか。
つまり、二宮というのは、どんなに用心しても、し足りないということであり、これこそ、
「臆病なのか、それとも、用心深いのか?」
ということが、
「紙一重だ」
ということになるのであろう。
それを考えても、
「二宮という男は、他の人と考え方が、まったく違っているものだ」
というものであった。
「ひょっとすると、1+1=2というものは、この臆病な性格からきているのではないだろうか?」
と考えるのであった。
「人間が、フレーム問題を解決することができる」
ということが、なぜなのか?
ということを考えた時、
「臆病だからではないか?」
と、二宮は、高校生くらいになってそう感じたのだが、その根拠となる考えは、中学時代のこの時に分かっていたのかも知れない。
しかも、臆病だと感じたのは、
「自分が中学受験をしない」
と考えたことに由来しているからであった。
「頭がキレるのは、臆病だからなのかも知れない」
といってもいいかも知れない。