都合のいい免罪符
「鏡の問題にしても、人間の錯覚に関するものというのは、意外と、ある程度人間には分かっているもので、それを意識しないようにするという習性が、人間にはあるのかも知れない」
と考えられるのであった。
このように、
「無意識のうちに何かを感じている」
ということで、
「科学的に、ハッキリと分かっていない」
というのは、結構世の中には一杯あるようで、その代表例として、
「デジャブ」
というものがある。
これは、
「初めて見るはずのものなのに以前にどこかで見たことがある」
という現象のことである。
これに関しては、ほとんどの人が感じたことがあるだろう。子供の頃の記憶であったりするのが多いのだが、よくあることとして、
「喫茶店や、美術館などに飾られている絵を見たりした時、デジャブと呼ばれる現象になったりするのだ」
という。
これも、ハッキリとした理由は分かっていないが、その中に考えられることとして、
「辻褄合わせではないか?」
と考えているのが、二宮賢三だったのだ。
辻褄合わせというのは、
「以前に見たことがあったと思われる漠然とした記憶が、似た絵を見ることで、無意識に感じていることを、根拠のあるものということで考えようとして、意識させようと考えている」
ということから、デジャブというものとして考えさせるのではないか?
と考えるのだった。
つまりは、
「デジャブ」
というものは、
「あくまでも無意識に感じているものだ」
という前提に立つことで、
「意識をいかに優先させえるか?」
ということであった。
無意識に感じることというのは、
「今まで感じたことに対して、辻褄を合わせようとするものではないか?」
と、二宮は感じていた。
だから、
「無意識というのは、意識して考えるということを自分で分かっているくせに、それを意識させようとしないことだ」
と考えるからではないだろうか?
「目の前にある絵を見たことがある」
として考えるのは、
「自分が人間なんだ」
ということを、
「意識しているからだ」
と考えるのは、考えすぎということであろうか?
ただ、考えすぎるということで、人間は、
「考えないようにしよう」
という意識が働くのではないか?
それを考えると、
「人間が、フレーム問題を解決したり」
あるいは、
「上下反転の鏡の問題を不思議だとは思いながらも、スルーしたり」
あるいは、
「デジャブ」
というものを、
「不思議なことだ」
と意識しながらも、受け入れることができているというのは、この、
「無意識という意識:
というものが、人間に与える影響の大きさというものを示しているということからなのかも知れない。
二宮は、子供の頃は、
「あまり無意識に何かを感じる」
ということはなかったと思っている。
むしろ、
「あまり、余計なことを考えることはなかった」
と思っているのであったが、
それは、
「無意識に何かを考えるということをしたくない」
という感覚があったということであろう。
小学生の頃から、
「天才ではないか?」
と言われていた二宮であったが、小学生の低学年の頃は、成績というのは、最悪で、
「将来、どうしようもないな」
と先制がさじを泣けるほどであった。
というのは、
「基礎の基礎が分かっていない」
ということであった。
というのも、算数でいえば、
「1+1=2」
ということが分かっていなかったのだ。
「どうして、そうなるんだ?」
ということを突き詰められると、先生も答えようがない。
数学的に証明することはできるのだろうが、それを小学一年生に説明しても何になるわけでもない。
だから先生とすれば、
「そうなっているんだから、素直にそう感じてくれればいいんだ」
としか言えないだろう。
確かに、少年は屁理屈を言っているのであって、先生からすれば、
「先生をバカにしているのではないか?」
とさえ思ってしまうほどであり。先生とすれば、
「なんとも面倒くさい生徒だ」
としか思わないだろう。
そして、
「こんな生徒が、一番厄介だ」
と感じていたのかも知れない。
できることなら、無視したいと思うくらいで、
「本当は天才なのでは?」
と一瞬頭をよぎるのかも知れないが、もし、天才だったとすれば、それはそれで、先生としては、
「なるべくかかわりたくない」
と思うことだろう。
特に、二宮の一年生の時の担任は、
「公務員というだけで教師になった」
というような、
「典型的な公務員教師」
であり、
「余計なことにはかかわらない」
という先生だったのだ。
特に、今の時代のように、
「これ以上ない」
というブラック企業であれば、とっくの昔に辞めていたことだろう。
というよりも、
「最初から教師などを目指すことはなかった」
に違いない。
この先生は、嫌なことにはかかわらないという性格であるが、そのかわり、かかわらないようにするための、下準備や、いろいろなリサーチに掛けては、余念がないといってもいいだろう。
だから、先生が教師になった頃も、少しはきつい状態であったのだろうが、今ほどではない。
何といっても、当時は、
「ゆとり教育」
という時代だったこともあり、確かに先生はそれなりに大変でもあったが、その先生が、
「辞めてしまおう」
というほどのことまではなかったようだ。
ゆとり教育ということで、
「生徒から面倒くさい質問がくる」
ということもなかった。
だが、中には、二宮のように、一年生の時から、成績が悪く、
「何が分からないから成績が悪いのか?」
ということが分かっていない生徒がほとんどだった。
そんな生徒に対しては、先生は、底上げということをしようとは、最初から思わなかった。
というのは、
「分からないということは、分かろうとしないのだから、いくら上から押さえつけてもどうしようもない」
ということが考えられるからであった。
しかし、二宮の場合は、
「何が分かっているのかまでは分からなかったが、明らかに何かを分かっている」
と感じたのだ。
そうでもなければ、
「あんな風に、しつこく質問をしてくることはないだろう」
ということであった。
だから、二宮としては、
「先生に嫌がらせをしている」
という意識があるわけではないのに、先生が面倒くさそうに対応してくるということを分かっているので、今度は二宮が、
「先生に嫌がらせをされている」
と感じるのだ。
そこで、彼が考えたのは、
「お互いにすれ違っているということをどっちが先に気づくのか?」
ということであったが、それが二宮だったことで、二宮は、そこで感じた、
「矛盾」
というものと、
「矛盾というものが、無意味に思えることの錯覚を呼ぶことになる」
と感じたことであった。
二宮は、
「無意識」
というものと、
「矛盾」
というものの、接点を感じた時、なぜか、それまで埋まらなかった、
「パズルのピースが埋まった」
かのように感じたのだ。
「1+1=2」
というものを、
「深く考える必要などないんだ」