都合のいい免罪符
ということを分かっておかないと、死んでからあの世に行って、自分がどのような運命にあるのかということが分からないだろう。
果たして、死んでから、死後の世界にたどり着くまでに、自分の人生を顧みる時間があって、理解することができるのか?
それこそ、
「時空」
というものの正体なのではないだろうか?
浦島太郎の話などで思い浮かべることというと、
「なぜ、ハッピーエンドではないのか?」
ということであった。
お話の最初は、
「虐められているカメを助けたことで、竜宮城へ連れていってもらった」
ということから始まっているはずで、本来であれば、
「いいことをしたはずなのに、なぜラストが、玉手箱を開けてしまったことで、おじいさんになった」
として、そこで終わっているのが、おとぎ話としての、
「浦島太郎」
という話ではないか。
実は、このお話には、続きがあった。
それは、
「浦島太郎を愛してしまった乙姫様が、カメになり地上に上がってきて、ツルになった浦島太郎と二人、末永く幸せに暮らした」
という話であった。
つまり、本来であれば、浦島太郎のお話というのは、
「恋愛物語であり、ハッピーエンドを向かるお話であった」
ということなのであった。
それを考えると、
「なぜ、話が途中で途切れているのか?」
ということは、詳しくは分からないが、少なくとも、
「開けてはいけない」
と言われた玉手箱を開けてしまったことが、いわゆる、
「見るなのタブー」
に抵触するということで、その見せしめとして、おじいさんになってしまったということは間違いのない事実であった。
つまり浦島太郎というお話は、
「情けは人のためならず」
という言葉の正論と、誤用との二つがかかわっている話だといえるのではないだろうか?
「人に対して情けを掛けることで、まわりまわって、自分の得になる」
という正論で考えると、
「本来の口伝通りに、ラストのところが、恋愛物語の、ハッピーエンドだ」
ということになる。
しかし、誤用としての、
「情けを掛けるということは、掛けた相手のためにはならない。下手をすれば、自分が損をするということに飛躍すれば考えられなくもない」
ということである。
それは、やはり、
「言葉には、表裏の意味が存在しているというものが多い」
ということもあるからであろう。
このことわざの場合の、
「情け」
という言葉であるが、この言葉も、表裏の意味を有する。
一つは、言葉通りに、
「人情、情愛、思いやり」
というものであったり、このお話にあるような、
「純愛、恋愛」
と言った愛情関係の感情などがあるのだが、最近では、それが、
「同情」
という形のものも存在していて、この同情というのは、
「相手のためにならない」
という意識を持たせる場合において、勘違いされやすいものということになるのではないであろうか。
つまり、
「誤用しやすい」
というところの一つの理由としては、この、
「同情」
という考えが大きいのではないかと考えられる。
そして、もう一つの考え方であるが、
「人のためならず」
という言葉における
「ならず」
という言葉である。
本来の意味としては、
「人のため」
というところにかかるのではないだろうか?
それを、
「ため」
という言葉に掛けてしまったことで、誤用されることになり、
「これが本来の意味を誤信させるものになるのではないか?」
と言われるゆえんであった。
もちろん、このような解釈というのは、日本のことわざだけでもたくさんあるのだから、このような誤用というものが、他にはないとは言い切れないだろう。
この言葉が、結構言われるようになったことから、
「ことわざの中には、表裏の意味があり、その解釈によって、正反対の解釈をしている人が結構いる」
ということになるのであろう。
特に、このことわざは、
「ことわざの意味がそれぞれ解釈されている」
ということで、
「実際に、このことわざが使われるようになったのは、鎌倉時代から」
ということなので、
「結構古くからある言葉だ」
といってもいいだろう。
いつ頃から誤用されるようになったのかは定かではないが、現代においては、
「このことわざから、それぞれの単語に、表裏の意味を含ませる」
という考えが出てきたのではないかと考えられるのではないか?
というのは、
「情け」
という言葉を、
「人情、情愛、愛情」
という言葉だけではなく、
「同情」
という、ある意味、それこそ本当に、人のためにならないというような意味に使われるようになったものもあるのではないだろうか?
それを考えると、
「他にも似たような解釈に結びつくような話もあってしかるべきではないか?」
ということになるであろう。
浦島太郎の話も、途中で切ってしまうことで、
「表裏の解釈」
ということになるのであろう。
考えてみれば、
「物語というものの構成がそうなっている」
ということから言えるのではないだろうか。
物語というのは、小説などのように、基本的に、
「起承転結」
という節目を持って、構成されているといってもいいだろう。
つまり、
「どこを切っても同じになる」
という、まるで、
「金太郎飴のようなものではない」
ということである。
「起承転結」
における。
「転」
という部分において切ってしまったことで、今まで言われている浦島太郎の話になっているわけで、最後の、
「結」
の部分を切ってしまうと、
「まったく別の話になってしまうということのいい例だ」
ということになるのであろう。
そんなまったく違った話になってしまうと、どういうことになるかというと、
「起承転結」
でいうところの、
「起」
の部分における伏線が、本来であれば、
「結」
の部分で、
「伏線回収される」
というはずなのに、それがなされないということになり、
「浦島太郎はいいことをしたはずなのに、どうして、最後には、ひどい目に遭ってしまうのか?」
という疑問だけが残る形になる。
だが、
「それでも、このお話を、ハッピーエンドということにできない何かの理由が明治政府にはあったのだろう」
ということで、どうやら、このお話を最後まで伝えなかったのは、学校教育の中で、浦島太郎のお話を、
「途中で終わらせる」
という明確な意図があったのであろう。
浦島太郎という話が、いかに伝わっているかということを、どう考えればいいのか、
「解釈としては、難しいところであった」
二つ存在
浦島太郎の話が、
「表裏の発想」
というものを考えさせる一つの扉のように感じると、
「この浦島太郎の話を、別の角度から見る」
ということになり、その発想が、
「SFとしての話」
と考えられるのであった。
これが、前述の、
「光速で進むことによっての時空の歪み」
という発想である。
「限りなくゼロに近い」
という発想であったり、
「無限と限界」