小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

都合のいい免罪符

INDEX|4ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 という研究をしている、
「物理学者」
 であった。
 主にタイムマシンなるものの研究を行っていて、彼のモットーとすれば、
「考え方としては、基本的に、タイムマシンの開発は不可能だと自分では思っている」
 ということである。
 しかし、それでもタイムマシンの研究をするのは、最初は、
「タイムマシンの研究は、いくらやっても完成に至ることはない」
 ということを証明したいというところから始まっていた。
 いくら研究を続けても、最後まで行きつくことのない、いわゆる、
「交わることのない平行線を描いているのだ」
 とすれば、
「どこかで誰かが止める必要がある」
 ということであり、
「それには、誰かが、有無も言わさないような理屈で止めるしかない」
 ということであった。
 彼には一つの、
「仮説」
 と言えばいいのか、それなりの基本となる考え方があった。
 それは、
「限りなくゼロに近い」
 という発想であった。
 その発想の出発点は、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョシカ人形」
 というものであった。
「合わせ鏡というのは、真ん中に自分がいてその左右あるいは、前後に鏡を置くことによって、永遠に続いている自分という姿を映し出すことで、永遠に続いていくものが、無限であるがゆえに、本来ではゼロになるはずなのだが、実際に消えることがないというのは、数学が証明している」
 ということであった。
 この理論が果たして、物理学に通用するものなのか、そして、もしこれが、
「無限」
 ということで共通するものだとすれば、
「未来というものが、次の瞬間に、無限の可能性を秘めていると考えると、そのどれが瞬時にして決まるかということを、人間は、ある程度絞り込める」
 というわけである。
 それが、
「ロボット工学としては不可能と言われるフレーム問題というものを、人間だけが、何とかできる」
 ということである。
 動物も何とかできるのだが、そこは、本能という言葉によって裏付けられることで、人間のそれとは違っているということだ。
 しかも、人間における、
「フレーム問題」
 というのは、決して解決できるということではないのであった。
 ロボット工学における
「フレーム問題」
 というのは、基本的に前述の、
「次の瞬間には無限の可能性が広がっている」
 というところからきているというものである。
 というのも、何かをしようとすると、次の瞬間、さらには、その次の瞬間に何が起こるかということを前もって考えておかないと、そこからどのように行動していいのか分からず、
「一歩も動けなくなる」
 というのが、当たり前ということになるであろう。
 これは、人間にだけあてはまるものではなく、動物や昆虫にも言えることである。
 ただ、動物や昆虫というものは、
「天敵」
 というものの存在を知っていて、
「弱肉強食」
 という世界において、
「自分がいかにすれば助かるか?」
 ということを分かっている。
 それを、
「本能」
 というものなのだろうが、ただ、ここで弱者というものがすべて助かってしまうとすれば、
「自然の摂理」
 というものが成り立たなくなってしまう。
 ということである。
 世の中が循環することで、成り立っている世界としては、
「弱肉強食」
 というのは、存在しなければいけないことであり、それでも、、すべてが滅ぼされてしまうと、今度は、強い方も、
「餌がなくなる」
 ということで、当たり前のこととして、
「弱肉強食」
 というのは、絶対的な存在だということに間違いはないのだが、それだけになってしまうと、
「自然の摂理」
 というものが狂ってしまう。
 つまりは、
「自然の摂理を保つために、弱肉強食は必要なのだが、それがすべてではなく、そのために、バランスというものを保たなければいけない」
 ということであった。
 だから、
「弱肉強食」
 というものにおいて、保護色などのように、自分を守る本能というものの存在が、ある意味、
「絶対的なことだ」
 ということになるのではないだろうか。
 それを考えると、
「弱肉強食」
 というものと、
「本能というものである、自衛」
 ということが、それぞれの、頂点として、
「相対的なものだ」
 といってしかるべきではないだろうか?
 そこ保たれているのが、
「自然の摂理だ」
 ということになるのであれば、
「人間にだけ、フレーム問題を解決することができる」
 という理屈も見えてくるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「時間と空間のそれぞれを考える時空」
 というものが、その両端に、絶対的な境界を、
「限界」
 という形で持っているとすれば、
「それが人間というものではないか?」
 といえるのではないだろうか?
「人間というのは、無限を求めている」
 といってもいいのだが、
「無限でないからこそ、人間には人間にしかできないことがあり、それが、人間を、高等動物だ」
 ということとしていえるのではないだろうか?
 人間というのは、他の動物のように、本能という面では、それほどハッキリとしたものを持っているわけではなく、自然界に入ると、逃れることはできない」
 ということになるのではないだろうか。
 そもそも、
「無限というものが存在するのかどうか。それが問題である」
 といえる。
 一つの考え方としては、
「無限というものを証明することができれば、限界というものも証明することができる」
 ということで、逆に、
「限界というものを証明できれば、無限の存在も証明できる」
 ということになる。
「限界というものは、物証を伴うが、無限には物証を伴わない」
 といえる。
 つまり、
「物証が存在してしまえば、そこで、限界というものが証明されることになり、限界以外で、物証をどうしても見つけることができないというものがあれば、それが、無限ということになる」
 ということである。
 だから、
「無限というものを証明するには、まず、限界というものを証明しなければいけない」
 ということであり、先に無限だけを追い求めている考えだけを持っていれば、そこには、決して、
「無限も限界」
 というものを証明することなどできるわけはないということであった。
 どうしても、人間は、
「無限」
 というものを追い求めようとする。
 それが、例えば、
「不老不死」
 という考え方であろう。
 よくよく考えると、前述の。
「浦島太郎」
 のお話のように、
「自分の知らない。自分を知らない世界」
 というものが存在した時の、
「虚空という感情が、どれほど虚しいものであるか?」
 と考えると。そこにあるのは、
「いかに、限界というものをいかに求め、そこから、無限という発想に結びつけることができなければ、自分がそこに存在しているという意義をも見つけることができず。最後は虚しさという無限地獄を見る」
 ということになってしまうに違いないということである。
 世の中において、
「無限であるか、限界があるか?」
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次