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都合のいい免罪符

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「竜宮城から戻ってくると、そこには、自分の知っている人が誰もおらじ、自分を知っている人も誰もいない世界だった」
 ということで、あとから、
「そこは未来だった」
 ということになり、最初に、
「自分の、あるいは、自分を知っている人が誰もいない世界」
 ということで、
「そこが、どれだけ辛い世界であるか」
 ということを思い知らされるということであった。
「いくら長生きしたとしても、そこに自分の居場所がない」
 ということであれば、それは実につらいことだ。
 もし、あの世に行って。自分を知っている人がいるのであれば、別に死を恐れるということはないだろう。
 死後の世界に、いくつかのパターンがあり、同じ世界であっても、自分の知り合いと出会える可能性はほとんどないといってもいいのではないだろうか?
 なぜなら、
「あの世の世界に、時代という概念はなく、生まれ変わることがまだできずに、死後の世界にいまだにくすぶっているのであれば、その世界は、いろいろな時代の人間で膨れ上がっている世界ではないか」
 ということであり、
「時間や時代という概念のない世界だ」
 といってもいいのだろう。
「時間や時代という発想を考えると、そこには、タイムマシンと、ワープというような発想が生まれてくる」
 と考えることがある。
 そこに生まれる発想としては、
「ワームホール」
 というものがあり、それを、一種のタイムトンネルと考えるか、、あるいは、
「ワープへの入り口」
 と考えるか?
 ということである。
 ワームホールというと、
「まるでタイムマシンのようだ」
 という発想になるというもので、
「時間を飛び越える」
 という発想である。
 基本的に、
「タイムトラベルというと、時間を超越することで、同じ場所に、瞬時に移動する」
 ということで、あくまでも、時間だけを飛び越えることになり、空間を移動するものではないということだ。
 つまりは、
「時間と空間は、別々に存在しているもので、それを合わせると、物質の存在によって、歪みを生じるものではないか?」
 という考えがあるという。
 実際には難しすぎて、説明も難しいし、どこまでが正しいのかということを証明するのも難しいといってもいいだろう。
 それを考えると、
「タイムマシンでは、瞬間物質移動」
 という発想を生むことはできないのではないだろうか?
 つまりは、タイムマシンができたとして、
「過去に行くことができたとしても、今いるその場所にしか移動できない」
 ということになるのではないだろうか?
 だったら、
「瞬間物質移動」
 ということになると、同じ発想として、
「時間というものは、普遍でしかない」
 といえるはずだが、
「そうでもない」
 ということが言われている。
 そう考えると、
「宇宙と旅する」
 という、SFマンガなどによる話は、すべてに辻褄が合っていないような気がする。
 例えば、
「地球が侵略されていて、遠い星まで行って、何かのアイテムを、一定期間の間にもって帰らなければ、地球は滅亡してしまう」
 としよう。
 それが、
「1年以内」
 ということであれば、基本的に無理なことは分かりそうなものである。
 というのは、
「空間を、光速で移動すると、時間の進みは遅くなり、まるで浦島太郎の話のように、宇宙船の時間で1年以内に戻ってきたとしても、普通のスピードで動いている世界は、すでに、数百年。いや、数千年という期間が過ぎているということになる」
 というものだ。
 そうなると、時代は進んでしまったことで、
「とっくの昔に、地球は滅んでしまっている」
 ということで、それこそ、
「戻るところがなくなってしまった」
 ということで、
「そのうちに、食料も水も、さらには空気もなくなり、死んでいくということを待っているしかない」
 ということになるだけである。
「地球に残って、滅んでいくのを、他の人と一緒に迎えるのがよかったのか、危険を犯して地球のために、宇宙に飛び出したはいいが、間に合ったと思った地球に戻ってくれば、地球は滅亡していた」
 というのとどっちがいいのかである。
 地球に戻ってきたとして、結局、自分たちだけが滅びていくことを考えると、それまでの士気が一気に下がり、そんな場面をお話にするというのは、あまりにも、むごたらしいといえるのではないだろうか?
 そもそも、
「地球の滅亡」
 というのは、最初から分かり切っていたことであり、お話としては、
「結局、どんなに抗っても、地球の滅亡という運命から逃れることはできない」
 ということになるのであろう。
「希望を持って、理屈を考えることなく突っ走ること」
 あるいは、
「一歩冷静に考えて、地球の滅亡は避けられない」
 と考える方のどちらがいいのか?
 ということであるが、
「運命に逆らうことは不可能であるが、希望というものに突き進むという理念は、エンターテイメントとしては、十分にありえることで、それが、希望という形の、よりどころといえるのではないだろうか?
 これが、ことわざの、
「情けは人の為ならず」
 という、本当の意味であり、逆に、
「冷静に考えることで、抗うことのできない運命を受け入れて、さらにそこから何かを見つけようとすること」
 としての、
「誤用の意味」
 と考えると、
「決して、誤用というものも、悪いものではない」
 といえるのではないだろうか。
 確かに、
「希望というものを当たり前のこととして、正当な理由を、いかに正しいものとして考えるか?」
 ということであるとすれば、
「世の中において、何が正しいのか?」
 ということを突き止めるということは、すべてにおいて、正しいことだという理屈にはならないということであろう。
 その中には、
「気休め」
 ということも含まれているようで
「気休め」
 というものが、
「いいことなのか悪いことなのか?」
 ということをいかに考えるかということになる。
「誤用」
 という方を考えると、これを逆に考えると、
「一歩下がって冷静に考えることで、ある一点しか見えていなかった発想が、まるで、パラレルのように、扇型に広がっていくものではないか?」
 とも考えられるのだ。
 だから、
「こちらを正しいものだとすれば、それ以外はすべてが、誤りだということになり、その発想が、一つのことをすべてにおいて、正しいことだ」
 と勝手に思い込ませることになるのではないだろうか?
 それが、
「時空の歪み」
 という考えであり、それぞれに、
「絶対的に相対性の考え方」
 ということで、
「時間と空間」
 という発想をいかに、考えるかということになるのだろう。
「誤用というもののように、絶対的な相対性のあるものは、まるで、ワープなどの時に示される、湾曲で波状になったグラフの。頂点から頂点なのかも知れない」
 と考えられるのではないだろうか。

                 逆も真なり

 ここに一人、
「二宮賢三」
 という男がいる。
 彼は、大学を卒業し、そのまま大学院に進んだ一種の、
「天才だ」
 といってもいいだろう。
 彼は、
「時空について」
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次