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都合のいい免罪符

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 ということを言われると、急にハッとした気分になるというのも、無理もないことなのかも知れない。
 それだけ人間というのは、
「自分が人間である」
 ということだけでも、それが誇りだとして考えるものなのではないだろうか。
 人間という種族がどういう動物なのかというと、
「他の動物と違って、思考能力を持っていることから、高等動物だ」
 と思っているのではないかと感じる。
「確かに、通じる言語を持っていて、考えることができることで、いろいろなものを発明して、文明を築いてこれることができた」
 といえるであろう。
 しかし、逆の発想というのもあるというもので、
「他の動物は、思考能力がないかわりに、本能というものがあって、その恩恵は、人間の思考能力に匹敵するものではないか?」
 ということである。
 しかし、実際には、
「人間のように、その時々で、柔軟な発想がないにも関わらず、ちゃんと生存できるのであるから、ある意味、人間よりも、したたかで、生きる力という意味では、他の動物の方が特化しているのかも知れない」
 と感じるのだ。
 だか、逆に言えば、人間が、他の動物を、
「人間ほど、高等な動物はいない」
 という発想のもとに、
「それがゆえに、他の動物は下等動物だ」
 ということになるのだとすれば。それは、
「自然の摂理」
 というものを、理解できていなかった時の発想なのかも知れない。
「自然の摂理」
 というのは、あくまでも、
「動物は、自然界の中ではある意味無力であり、摂理には逆らえない」
 ということだからではないだろうか。
 そこには、
「弱肉強食」
 という発想があり、
「生命には、限界がある」
 という当たり前ともいえることが、その表れというものではないか?
 といえるのではないだろうか?
 人間というものは、
「自然の摂理」
 という考え方の蚊帳の外にいる。
 と考えられるのではないかと思うのだ。
 人間の生命だって、限界があるのは、他の動物と変わりはないはずだ。しかし、人間にとっての、他の動物でいう、
「絶対的な天敵」
 というものはいないではないか。
 例えば、
「三すくみ」
 などのように、
「ヘビは、カエルを食べるが、カエルは、ナメクジを食べる。しかし、そのナメクジはヘビを溶かしてしまう」
 という
「絶対的な天敵」
 というものが存在していて、それが循環することで、うまく回っているということの証明として、この三つが、
「絶対的な天敵である」
 ということの証明になるのだった。
 人間の天敵というのは、本当は存在しているのかも知れないが、それを人間は頭脳によって、それを天敵としない、薬であったり、寄せ付けないという
「兵器」
 のようなものを当たり前のように持っていて。それを自覚していないことから、
「絶対的な天敵は存在していない」
 ということを思うことで、
「人間が高等動物である」
 という証明と、
「都合のいい解釈」
 ということになるのであろう。
「人間にあって、他の動物にないもの」
 ということであれば、それはいくつもあるだろうし、逆の場合もいくつもあるだろう。
 しかし、それが、
「相対するものなのかどうか?」
 ということも限らないといえるに違いない。
「人間にあった、他の動物にないもの」
 ということで、一つ考えられることとしては、
「文明」
 というものではないだろうか?
 人間も、動物も、
「その期間という長さは違う」
 ということであるが、基本的な寿命というものはある。
 ただ、
「人間と、人間以外」
 という考え方をする場合、どの動物に焦点を当てるかということで変わってくる。
「人間は生きて、大体100年がいいところであろうか?」
 もちろん、100歳まで生きれば、かなりのものではあるが、キリのいいところで、
「100年」
 というとしよう。
 人間以外で、身近なものといえば、まずは、
「ペット」
 ということになるであろう。
 ペットというと、一番多いのが、
「犬や猫」
 ということになるだろう。
 そうなると、大体が、10年から15年というのが平均的ではないだろうか。
 だとすると、
「人間よりも、かなり短い」
 と考えられる。
「では、もっと長い動物はいないのか?」
 と考えると、
「鶴は千年、亀は万年」
 というではないか。
 本当にそんなに生きるわけではないだろうが、少なくとも人間よりも長いというのは当たり前のことであろう。
 短いところでは、セミのように、
「成虫になってから、生きても一か月」
 ということであれば、
「人間から考えれば、まったく何もできない期間ではないか?」
 といってもいいだろう。
 だが、どれだけ長く生きようとも、その中身がなければ、どんなに長生きしても、それは
「地獄でしかない」
 といえるだろう。
「浦島太郎」
 の、
「玉手箱を開けた瞬間」
 という考え方と、西遊記などで言われるような、
「高貴な坊主の肉を食らえば、不老不死の力を得られる」
 ということでの、
「不老不死」
 というものが、本当にいいのかということを考えると、
「いろいろな発想が生まれてきて。人間だけでも、一人一人の考え方があるのだから、本当に、人間以外の動物に、まったく思考能力がない」
 と言い切れるのだろうか?
 と考えてしまうのであった。
「ファンというものは、どんなに多いところであっても、過半数に行かなければ、多数派ではない」
 と言われる。
 つまりは、
「ファン以外はアンチである」
 といってもいいだろう。
 もっとも、
「アンチも一種のファンである」
 という考え方も、一つの真理であり、
「逆も真なり」
 ということになるであろう。
「数の錯覚」
 ということでいえば、野球における、打率というのも、その一つだといえるのではないだろうか?
 というのは、
「大体3割打てれば、上出来であり、1割未満というと、戦力外に匹敵する。そして、4割ともなると、まずいないといってもいいくらいで、本当の希少価値だ」
 と言われている。
 3割というと、10打席に3回ヒットを打てばいい。
 ということで、単純に考えると、
「そんなに難しくない」
 と思われるのだろうが、数字というものが、それだけ間違いのないもので、シビアなのだと考えると、これほど、正確なものはないともいえるだろう。
 そう考えると、
「錯覚」
 というわけではなく、
「裏付けという根拠だ」
 ということになるのではないかということだ。
 となると、寿命というものも、
「元々、意味があって決まっているのではないか?」
 と考えると、その考えには基本的に間違ってはいないといえるのではないだろうか?
 確かに、
「自分の寿命が何年だ」
 ということは、誰も知らない。
 知らないからこそ、自分が今、寿命という意味でどこにいるのか分かってないということである。
 だから、
「人生が面白い」
 ということであるが、もし、この寿命というものが、長すぎるということになると、
「これほどつまらないものはない」
 といえるのではないだろうか。
 これは浦島太郎の話の裏付けになることであり、
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次