都合のいい免罪符
というものが本当にある確率というのを考えた時、やはり、
「偶然の産物」
という方が、確率的にはかなり高くなると考えることで、その信憑性という意味でも、高くなるのではないだろうか?
「普通の常識」
ということで、考えるなら、
「この発想というのは、かなり奇抜なものだ」
ということで、
「常識の範囲を逸脱している」
と思い、
「想定外ではないか?」
と考えてしまうことが大きいのではないだろうか?
しかし、そのような、いわゆる、
「常識」
という考え方というのは、考え方において、却って、
「ガチガチの雁字搦め」
ということになり、それを、例えば、
「科学では証明できないことはない」
という考えを額面通りに読み込んで、なんでもかんでも、証明しようとして、それができなかったということで、その説を、
「科学への冒涜」
として、
「冒涜という言葉を、免罪符に使って、自分の言い訳にする」
というのは、
「それこそが、科学への冒涜ではないか?」
といえるのではないだろうか?
二宮は、そういう考え方を結構している。
その中で、
「雁字搦めになるような考え方が、可能なことを不可能なこととして、証明などできるはずがない」
ということで、
「冒涜への免罪符」
という切り札を出してこようとするそんな考えを、あまり好きではないということで、基本的には、
「なんでもかんでも、科学で証明しようとしない」
と考えながらも、
「科学で証明できないのであれば、科学以外のもので証明するのもいいのではないか?」
ということを考えると、結局、
「科学が証明してくれる」
ということになるのであった。
それが、二宮にとって、
「一方向からうまくいかなければ、別の方向から見るということを、一筋縄ではいかないということで、免罪符にしない」
と考えるようになったのであった。
そんな中で、
「もし、生まれ変われるとすれば?」
ということで、
生まれ変われる命が、二つであった場合は、
「まるで、異次元のような気がする」
という考え方であった。
「命が、一つなのか、二つなのか?」
それは、
「パラレルワールドが存在する」
ということを、前提に考えた場合のことであった。
パラレルワールドというものの発想を、いかに考えるかということであるが、
「双子であったり、双子に類するような、両親が同じ人からでない場合に、それぞれの命が同時に授かった場合というのは、まるで、ドッペルゲンガーではないか?」
という発想であったとすれば、
「双子というのは、ドッペルゲンガー以上のものである」
ということはありえないといえるだろう。
「双子というのは、お互いにそれぞれの運命を知っていて、実は知らないふりをしているだけではないか?」
と、二宮は考えていた。
「知っているというのは、分かっているということであり、それが意識的なのか、無意識なのかということは関係ないのである」
ということである。
だから、双子というものには、昔から、
「大きなパワーのようなものがあり、それを恐れるあまり、もう一人を、里子にやったりして、本人たちは、双子に生まれたくて生まれたわけではないのに、そのやり方をひどいと思うのではないだろうか?」
ドッペルゲンガーというのも、それに近いものがあり、
「必ず、誰かにでも、もう一人の自分というものが存在している」
ということが分かっていると思っているのも、二宮であった。
それが、パラレルワールドであり、
「パラレルワールド」
というものが、異次元ではない。
ということから、
「ドッペルゲンガーというものは、同一次元の同一時間に存在しているものだ」
ということになり、
「その恐ろしさから、もう一人の自分を見ると、必ず死ぬ」
と言われるようになったのだろう。
そう考えた時、ドッペルゲンガーというものを見ると死んでしまうということで、
「死んでしまうのは、この世にいる方の人間だ」
と勝手に思い込んでいるのではないだろうか?
その発想から考えれば、
「ドッペルゲンガーを見かけるというのは、悪い方に考えてしまう」
という発想になる。
と考えてしまうのだった。
だとすれば、
「逆に、都合よく考えるというのもありではないか?」
と思ったのが二宮の発想であり、そこで思いついたのは、以前に本で見た、
「ここ半世紀くらいの間にいわれるようになった都市伝説である、カプグラ症候群という発想を頭に描くようになってきた」
というのであった。
この、
「カプグラ症候群」
というのは、
「恋人や家族などの自分に近しい関係の人が、いつの間にか、悪の秘密結社のような連中によって、身代わりが当てがわれ、入れ替わっているのではないか?」
という発想のことである。
それは、一種の都市伝説というよりも、
「精神疾患による錯覚」
というものではないかということであった。
つまり、
「カプグラ症候群」
を正しいとして、
「悪の秘密結社」
によるものかどうなのか分からないが、
「入れ替わった人間が、実はその人がドッペルゲンガーではないか?」
ということである。
カプグラ症候群になると、明らかに、入れ替わっていると思っている人は、性格がまったく変わってしまっていて。
「近しい間柄でなければ、決して知り合いにならない」
という相手であり、逆に親しい間柄だからこそ、むげにもできないということで、
「一体どうすればいいのだろうか?」
ということになるのであって、
「できれば、都合よく考えたい」
と思ってしまうのである。
精神疾患だということだから余計にそう考えるのだ。
まるで、
「夢の中にいるような気がする」
というような感覚であり、
「夢の中にいる:
という発想は、
「精神疾患というものとは違い、夢を見ているという意識を持っている」
ということだ。
だから、例えば、
「夢の中だから、空を飛ぶことだってできるのだ」
というような、
「夢を見ている」
という意識はあるのだ。
だが、意識があるだけで、
「空を飛ぶことができるはずだ」
と思ったとしても、
「もし、できなければ、墜落して死ぬことになる」
という思いが頭をもたげるからなのか、
「決して、高いところから飛び込もうなどということはしないであろう」
するとすれば、足元から自分で飛び上がるというようなことをしてみるとだけで、実際に飛び上がったとしても、それは、
「宙に浮く」
というだけのことで、とても、腰以上の上を飛ぶことができず、
「ただ、宙に浮いているだけで、進むこともできない」
ということにしかならないということであろう。
それが、人間の潜在意識というものであり、
「夢というものは、潜在意識のなせる業だ」
ということになるのであろう。
つまり、