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都合のいい免罪符

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 というものを使って、神様の怒りのようなものを鎮めるということが平気で行われていたというではないか。
 つまりは、今でも残っている、
「地鎮祭」
 なるものがあって、
「建物の安全を保たせるには、神の怒りを鎮める」
 という考え方が主流になっていたのだ。
 だから、領地を守るためという、
「城」
 であったり、
「要塞」
 などを築く際には、神の怒りを鎮めるということで昔から、
「人柱」
 という形での儀式が行われていたということである。
 昔はそれ以外にも、
「山の中に化け物が住んでいて、夜な夜な人をさらってきてから、子供などの肉を食らう」
 というような伝説があったりしたが、その際は、化け物に大して、
「一定期間の間に、いけにえを差し出す」
 という儀式があったりした。
 これも、結局は、
「人柱」
 と同じで、
「生きている人間を差し出す」
 ということになるのだ。
 だから、昔の城建設に伴って、
「人柱にされた」
 という人が結構たくさんいて、その人柱というのが、ほとんどといっていいほど、
「若い娘さん」
 ということになっているのだった。
 何といっても、人柱などは、
「生き埋め」
 なのである。
「殺しておいて、相手に差し出すということと、訳が違う」
 ということで、
「その恐ろしさは、想像を絶する」
 ということになるのではないだろうか?
 どんなに苦しくても、自然に死ぬまで、その苦しみから逃れることはできない。
 それこそ、
「切腹をして、介錯をしてもらえない」
 という苦しみと同じであり、
「いや、それ以上に時間は長いわけなので、どれほど恐ろしいものなのか?」
 ということである。
 そういえば、戦前くらいの探偵小説の中で、
「人が死んでしまったので、当時は主流だった土葬にされたのだが、奇跡的に蘇生してしまったが、呼吸もできないで死を待つだけの恐ろしさに、その男は、最後にはどうにかして助かるのだが、髪の毛は一気に、その恐ろしさから、真っ白になってしまった」
 ということであった。
 それが、恐怖ということであり、
「自分を死んだことで、得をした連中に復讐をする」
 という話であったが、やはり前半の、
「生き埋めのなった描写が生々しく描かれていたのは、衝撃的な作品であった」
 ということで、今では、
「隠れた名作」
 と言われているようだった。
 意識してなのか、それとも働く意識がないということからなのか、
「人柱」
 であったり、
「生贄」
 として差し出されたものを、表現するものは、文書としては残っていなかった。
 それは当たり前のことだといってもいいかも知れない。
 なぜなら、
「人柱」
 であったり、
「生贄」
 というものは、何といっても、助かることを前提としているわけではなく、
「城を守るため」
 あるいは、
「民衆を守るため」
 ということで、
「皆の命のために、一人が犠牲になる」
 ということで、皆、後ろめたさは当然のようにあるだろう。
 もちろん、若い娘さんの中には、
「よかった。私じゃなくて」
 と、ホッと胸をなでおろしている人もいるだろうが、あくまでも、
「その時は助かった」
 というだけで、そんな風習が残る以上、
「いつ、今度は自分が犠牲者にされないとも限らない」
 ということで、その恐怖を敢えて、文書に残すことはしなかったのだろう。
「人柱として使われた」
 ということだけを言い伝えとして残しておくだけで、その詳しいことは、まず黙っておくというのが、その当たり前のことだといっても過言ではない。
 そんな
「人柱」
 にも、
「ドッペルゲンガーというものが使われている」
 という話を聞いたことがあったが、それを文書に残すようなことは、絶対といっていいほどあるわけではない。

                 生まれ変わり

 そんな中で、
「ドッペルゲンガー」
 というのは、
「誰かの生まれ変わりが、たまたま、もう一人の自分になったのではないか?」
 という風に考えている人がいた。
 それは、他あらぬ、二宮だったのだ。
 二宮は、高校生の時にドッペルゲンガーというものに興味を持ち、いろいろな本を読んらりして、自分なりに、
「その正体がどういうものなのか?」
 ということを考えようとしていた。
 そこで考えたのが、
「同じ人間が、なぜ存在しえないのか?」
 ということであった。
「同じ人間ではないが、双子などはよくあることではないか?」
 と思ったのだ。
 普通に考えれば、
「双子って、同じ母親から同時に生まれたというだけで、違う人間だ」
 と人はいうし、自分もそう思っていた。
 しかし、
「だったら、別の母親から、自分と同じような人間が生まれたとしても、無理もないことではないか?」
 ということであった。
 しかし、それだけでは、
「同じ人間」
 というのは生まれない。
 ただ、
「ドッペルゲンガーというのは、本当に同じ人間で、もう一人の自分でなければいけないのか?」
 ということであった。
 確かに、
「似ている人」
 ということではいけないのだろうが、それは、あくまでも、
「血のつながりがない」
 ということであり、それが、
「腹違いの兄弟」
 であれば、もし、これが、あくまでも偶然ではあるが、同じ日に生まれるという偶然があれば、ありえないことではない。
 妊娠してから、必ず、皆が皆同じ妊娠期間というわけではない。だから、
「予定日」
 というのであり、前後1週間くらいの誤差があるのは、普通ではないだろうか?
 そう考えると、
「妊娠してから生まれるまで、どれだけかかるのか?」
 というのは曖昧なので、
「正妻と、不倫相手が同時に子供を宿したとして、一緒に生まれてくる」
 などということもありではないだろうか?
 そういえば、昔の小説が原作のドラマで、大正時代の商人の女将さんが、旦那が浮気をして、その人を腹ませたことで、嫉妬に狂って、相手の家に押しかけていけば、偶然二人が同時に産気づいて、結局、隣で生むという、
「どちらにとっても、やりきれない結果」
 ということになったのだった。
 その場合の二人の子供は、正反対の性格になっていき、お互いに数奇な運命を描くというものであった。
 それは、時代が時代だっただけにしょうがない部分があった。
 片方は、
「商人の坊ちゃんとしてぬくぬくと育ち」
 もう片方は、
「丁稚奉公に出されて、虐められながら育つ」
 ということだから、
「生まれながらに差別があった」
 ということの典型であった。
 こちらは、
「育った環境の違い」
 ということで、運命のいたずらが起こったのだ。
 では、
「生まれた子供がほぼ同じ環境で育ったとすれば、同じ遺伝子で、しかも、ほぼ同じ時間に生まれたのだとして、二人の容姿もほぼ同じだ」
 ということになれば、どうなるであろうか?
 そんなことを考えていると、
「この二人がドッペルゲンガー」
 と言われるような関係であったとして、
「ドッペルゲンガーの存在」
 ということに限定すれば、これくらいの確率は、それほど低いものではないだろう・
 少なくとも、
「ドッペルゲンガー」
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次