都合のいい免罪符
「人間は、基本的には都合のいいように解釈しようとするので、夢というのを免罪符にして、都合よく考えようとするのだが、結局、臆病であるという発想から、最後には、自分たちが人間であるということを結論として、都合よく考えてしまうことを、辻褄が合わないことへの免罪符として理解しようとすることで、結局、その先をいかに理解するのであるか?」
と考えることになるのであった。
だから、
「ドッペルゲンガー」
という考え方も、
「双子というのが、事実として生まれることで、双子の発想に近いものを、人間は創造するのだろうが、それは、あくまでも、都合よく考えるということであり、そこに、ドッペルゲンガーというものが、双子のような事実として存在しない」
ということを都合よく考えることから、
「都合のいい免罪符」
として考えるようになったということになるのであろう。
二宮は、そこまで考えてくると、
「自分のドッペルゲンガーってどこにいるのだろう?」
と考えるようになっていったのだった。
ドッペルゲンガーというものを、
「都合のいい免罪符だ」
と考えるようになると、
「そこにある命というのは、一つなのか、二つなのか?」
という前述の考えに至るのであった。
そこで、一つおかしなことを考えると、
「ドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」
というのが、事実であるとすると、
「死んでしまうのは、本当の本人なのだろうか?」
と考えるのであった。
「ドッペルゲンガー」
というものがどれだけ、本人と似た存在であり、本人そのものだと考えたとすれば、
「本人そのものに近いというのは、前提としてあるのだが、あまりにも近づきすぎると、今度は、ドッペルゲンガーではなくなってしまう」
ということを考えてしまうのであった。
つまりは、
「ドッペルゲンガーと本人との関係は、近づきすぎると、お互いに一度一つになってしまい、そこからまた分裂することになるのだが、その時にシャッフルされて、どっちがどっちだか分からなくなってしまう」
と考えられないだろうか。
つまり、
「交わることのない平行線」
というものの逆の発想で、
「交わることになるのだが、それでも、平行線」
という、まるで、
「時空の捻じれ」
というものに匹敵するかのような、
「メビウスの輪」
というものだといえるのではないだろうか?
この、
「メビウスの輪」
というものが、
「時空の捻じれ」
であるとするならば、二宮の中で、さらに、
「都合のいいもの」
ということで考えるならば、
「死んでしまう」
という方は、ひょっとすると、
「ドッペルゲンガーではないか?」
という発想になるのではないかと考えたとして、そこに何の不思議があるというのであろうか?
そんなことを考えると、
「ドッペルゲンガー」
というものを、いかに、都合よく考えるかとすると、
「カプグラ症候群」
というものとの合わせ技で、
「死んでいったのは、最初に入れ替わったドッペルゲンガーというものであり、ドッペルゲンガーというものが、本人の代わりに死ぬために、入れ替わったのだ」
ということであり、そう考えると、
「カプグラ症候群」
というのは、元々、
「人間というものを、都合よく解釈させるための免罪符なのではないか?」
と考えるようになり、
「ドッペルゲンガー」
というものにも、一つの人格が存在し、
「実際に、命がある」
ということになるのであろう。
だから、
「ドッペルゲンガーというものは、命が二つあることで、本当の自分を守るために存在している」
という、都合のいい解釈をするために、二つ命があるということになるのであろう。
大団円
「都合のいい免罪符」
というものを考えた時、
「命は、一つなのか?」
それとも、
「二つなのか?」
という発想を抱くのであった。
前章のように、
「命が二つある」
と考えた時に、これをドッペルゲンガーに結びつけるとすれば、
「平行線でも、交わることがある」
という、まるで、
「メビウスの輪」
のような、
「時空の捻じれ」
というものを考えるのである。
それを、二宮は、
「繰り返し」
という発想に置き換えるような思いがあるのだった。
命が二つあることが、
「今の世界の理屈に近い考え方で、繰り返しというのは、一種の輪廻転生というような発想」
ということであり、
「一人の人が死んだ時、その瞬間に生まれた人がいた場合、それが生まれ変わりだということで、考え方としては、死後の世界というものを認めないという考え方」
だというのである。
ただ、もう一つの考え方として、前提としては、
「ドッペルゲンガーの存在は絶対だ」
ということから始まり、
「ドッペルゲンガーであろうがなかろうが、その人の命は一つである」
という考え方である。
この考え方は、
「一度死んでしまうと、その時生まれた人は、何も同じ時に死んだ人とは一切のかかわりがない」
ということであり、ただ、関係があるとすれば、死後の世界で、生まれ変わるために、準備ができたことで、ちょうどその人に生まれ変わったとして、同じ瞬間に死んだ人がいたとすれば、その人が、もし、この世に未練があったとすれば、
「幽霊になるか、この世でさまよう間に、同じ時に生まれた人とかかわりができることで、その人が、ドッペルゲンガーのような存在になる」
ということだと思ったとすれば、
「ドッペルゲンガーというものは、見れば死んでしまうというのは、死ぬのはドッペルゲンガーであり、実際には死んでいる人間なので、この世にいる時は、他人のドッペルゲンガーとして存在していたが、未練がなくなった時点で、ドッペルゲンガーとして、あの世に召されるのだ」
と考えると、
「少し強引ではあるが、理屈としては、ありえることではないか?」
と考えるのであった。
つまり、
「ドッペルゲンガーというのは、命が一つの時と、二つという複数の時とで、解釈は違ってくるのであるが、その発想は、それぞれに信憑性があるということで、その共通点としては、都合のいい免罪符だ」
ということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、二宮は、再度、一つの言葉で、正反対の意味を感じさせることわざを思い出すのであった。
それが、
「情けは人のためならず」
ということであり、
「この言葉にも、都合のいい免罪符という発想が存在しているということで、命といえるものが、一つであったり、複数のものが考えられるということになるのではないだろうか?」
そんなことを考えると、二宮は、
「命が複数あると考える時は、繰り返しという発想を思い描くものであり、それが、今の世の中に辻褄を合わせるという感覚になる」
というものであり、ぎゃくに、
「命が一つの時は、フェードアウトしていく命を思い描かせ、そこには辻褄を合わせるというよりも、実際の事実と思われることに、発想を結び付けようとしているというものではないか?」
と考えるようになったのであった。