小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

都合のいい免罪符

INDEX|13ページ/18ページ|

次のページ前のページ
 

 ということができるようになるのだということで、その段階ごとに理解するタイミングというものを身に着けていくことで、その身に着けるという発想が、それこそ、そのまま、
「階段グラフ」
 となっているということを、ずっと理解しないままに、
「ただ、段階を踏んでいる」
 ということを感じているだけであった。
 それを思えば、
「どうして、今まで最初から階段グラフの発想をすることがなかったんだろうか?」
 と今までの正しいと思った道筋に対して、急に疑問を呈してくるということになったのも、ある意味、無理もないことなのかも知れない。
 ドッペルゲンガーというと、結構昔から言われていていて、そのせいもあるのか、意外とたくさんの人がその言葉だけではなく、結構認知しているようだった。
 その理由は正直分からないが、
「ひょっとすると、マンガやゲームというものから、その情報を得ている」
 ということなのかも知れないと思っていた。
 ただ昔から存在している話ということで、結構有名だということで、二宮が、
「その発想は、スムーズに意識して入ってくることができた」
 という理由として分かるというものではないかと考えられるのであった。
 そして、ドッペルゲンガーというものには、共通する逸話が残っているということも、その印象に深く残るということから考えられることなのかも知れない。
「なるほど、印象に深く残るから、皆が認知しているんだ」
 ということで、
「忘れない」
 ということ、つまりは、
「忘却の彼方に忘れ去れることはない」
 ということから、
「ドッペルゲンガー」
 というものは、言葉だけでなく、その内容自体も、
「ハッキリと認知されているのではないかということになるのであろう」
 ということであった。
 ドッペルゲンガーというものを、どのように理解すればいいのかというと、
「もう一人の自分が、同一次元の同一時間に存在している」
 ということが大前提であった。
 そして、この
「ドッペルゲンガー」
 というのは、
「世間には3人はいるといわれる、よく似た人」
 というものではなく、あくまでも、
「本人自身」
 つまりは、
「もう一人の自分」
 なのである。
 だから、ドッペルゲンガーが現れるその場所というのは、
「必ず、その元になっている本人の行動範囲以外ではありえない」
 というものであった。
 だから、
「海外旅行に行ったことのない人のドッペルゲンガーをニューヨークで見た」
 といっても、それはあくまでも、
「よく似た人」
 というだけで、
「もう一人の自分ではない」
 ということで、
「ドッペルゲンガーではない」
 ということになるのであった。
 さらに、いくつかその前提となる話はあるのだが、一つとして、
「決してドッペルゲンガーはしゃべらない」
 というのだ。
 だから、
「口を利けば、ドッペルゲンガーではない」
 ということになり、裏を返すと、
「ドッペルゲンガーの声を誰も聞いたことがない」
 ということになるのだ。
 そして、ドッペルゲンガーの伝説として、一番共通で言われているものというのは、
「ドッペルゲンガーというものを見てしまうと、近い将来、必ず死んでしまう」
 ということであった。
 ここが、一番の都市伝説であり、都市伝説でありながら、その信憑性はかなり高く、ただ、高い割には、曖昧さがどうしてもぬぐい切れないということで、
「都市伝説だと言われる、一番の理由だ」
 ということになるのであった。
 その信憑性というのは、
「今までにたくさんの著名人や有名人が、ドッペルゲンガーを見たということで、命を落としている」
 という伝説が残っていることであった。
 その中でも、一番不気味な伝説というと、
「芥川龍之介の話ではないだろうか?」
 というのは、
「芥川龍之介が自殺を試みるその前日に、編集者の人が訪れていて、その人の前で、作品を執筆中に中座したのだという。その時、編集者の人が龍之介のいない間に、そこに置いてあった作品をちょっとみようとすると、龍之介が戻ってきて、編集者に対して、今までにはないくらいの勢いで怒りをぶちまけ、その原稿を、編集者の前で、破り捨てたというのだ」
 そこまでは、普通にある話なのだろうが、
「翌日になると龍之介の自殺死体があることで、編集者はびっくりするのだか、それよりも何よりも、一度目の前で破り捨てたはずの原稿が消えていた」
 というのだ。
 もし、書き直したとしても、とてもじゃないが、自殺を試みるまでに書けるはずのないものであった。
 そこで、
「その不思議なできごとへの解釈」
 として、ドッペルゲンガーの話が持ち上がったのであった。
 つまり、
「中座から戻ってきた龍之介は、あくまでも、ドッペルゲンガーであり、きれいな原稿も、ドッペルゲンガーの仕業ではないか?」
 ということである。
 というのは、
「ドッペルゲンガーが、龍之介にとってかわろうとしたのではないか?」
 と考えられ、
「本人の原稿を破り捨てることで、自分が表に出ようと考えたのだとすれば、辻褄が合うのではないか?」
 という考えは奇抜なものであろうか?
 ということであった。
 そもそも、
「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来死んでしまう」
 という伝説の根拠はどこにあるというわけではない。
 しいていえば、
「有名人、著名人がたくさん伝説を残している」
 ということからくるもので、その理由についても、いろいろ言われているが、そのどれもが、
「後付けということでしか、証明できない」
 ということになるのであろう。
 その中でも、なんとなく説得力を感じるものとして、一つは、
「タイムパラドックスに対しての挑戦」
 といってもいいだろうか。
 というのは、
「同一次元の同一時間に同じ人間が二人存在するということは、タイムパラドックスの矛盾をつく」
 ということで、
「パラドックスによって、片方を消しにかかる」
 という発想である。
 奇抜ではあるが、その発想には一理あり、証明さえできれば、定説となることは間違いないことであろう。
 そして、もう一つの考え方としては、
「そもそも、ドッペルゲンガーを見る」
 ということは、
「病気による錯覚」
 ということで、
「その病気が悪化したことによって、死を迎える」
 という、一番すっきりすることであり、信憑性がありそうなのだが、ここに結論をもっていかないのは、それだけ他の説にも信憑性があると考えられるからではないだろうか?
「それだけ、ドッペルゲンガーというものは、得体の知れないものだ」
 ということになるのだろう。
 ドッペルゲンガーとは違うのかも知れないが、日本では、特に線独時代などでは、
「影武者」
 なる存在があったという。
 それは、戦国武将の、身代わりということであり、もちろん戦などでは、総大将がやられてしまい、首を取られると、そこで終わってしまうということで、影武者など人を身代わりにする形で、本陣にある総大将の席に、総大将の鎧を着せて、そこにドンと構えさせておくというのが、影武者と言われるものだったりする。
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次