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都合のいい免罪符

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「敗戦ということの屈辱を味わわされる」
 ということになるのであった。
 敗戦ということが別に屈辱ではないはずだ。
 壮行会を開いてくれたのだって、
「ここまでよくやって代表になってくれた」
 ということではないか。
 それが打って変わって、
「敗戦すれば、そこで終わり」
 とばかりになるのは、実につらいことである。
 考えてみれば、
「万歳三唱を駅でやる」
 というのは、昔の大日本帝国において、戦時中に、出征兵士を送り出す時のものではないか。
 時代が時代だっただけに、
「出征は、国民の誇り」
 というご時世だったことで、それは、
「国のために死ぬ」
 ということを前提にしてのことであった。
 いや。
「国のため」
 というわけではない。国家元首である、
「天皇陛下のため」
 ということである。
 だから、兵士となって死を目の前にした兵士や、民間人は、皆最後には、
「天皇猊下万歳」
 を叫ぶではないか。
 そう、駅にて、
「万歳三唱をされる」
 ということは、
「潔く死んで来い」
 といっているのと同じではないだろうか?
 時代が変わったのだから、それを思い浮かべる人はいないだろうが、なぜか、二宮はそれを思い浮かべた。
 しかも、負けて帰ってくると、分かっていることとはいえ、誰も出迎えすらしてくれない。
 駅の横断幕の、
「祝」
 という文字を見ると、おめおめと負けて帰ってきた自分たちを、蔑んでいるように見えて、その惨めさと屈辱に、
「身も震えんばかり」
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「そもそも、あの壮行会自体が、茶番でしかないんだ」
 ということになる。
 もし、全国制覇を果たして帰ってきたとしても、
「戦勝報告までしてしまえば、きっと、県知事をはじめ、役所の人たちの中では、すでに過去のこと」
 ということになっているに違いないだろう。
「パラレルワールドが無限なのか、限界があるのか?」
 ということを考えると、
「そのどちらにも、信憑性はある」
 といえるんだろう。
 もしこれが無限だと考えるとすれば、その根拠は、
「限りなくゼロに近い」
 という、
「合わせ鏡」
 であったり、
「マトリョシカ人形」
 のようなものの存在を考えた時、そこにあるのが、
「ゼロに近い」
 というもので、そのゼロというものが、無限であるということが証明されれば、
「無限」
 という存在も証明されるということなので、
「無限の可能性」
 であったり、
「パラレルワールドが無限に存在する」
 と考えると、無限の数の命の存在を、今度は否定することはできないだろう。
 そして、
「パラレルワールドの存在」
 というものが証明され、さらに、
「それが、限界がある」
 という考えに至った時、その限界というのが、
「複数系でいうところの最小単位だ」
 と考えられる。
 となると、
「限界のあるパラレルワールドで存在しているもの」
 というと、
「2つということになり、限界である命も2つしかない」
 ということになるのだ。
 それが、表裏である相対性とする、
「鏡の世界」
 であったりが、その可能性となるのではないだろうか?
 そう考えると、
「三すくみ」
「三つ巴」
 などという3つの世界が織りなすものは、一つの世界において、相対的なものではなく、あくまでも、
「一つの世界の中に存在する、別宇宙だ」
 といえるのではないか?
 ということであった。

                 ドッペルゲンガー

 ドッペルゲンガーというものを知ったのは、天才児と言われた二宮にしては、少し大人になってからのことであった。
 あれは、高校時代に、物理学の本を読んでいて出てきたのが、
「ドッペルゲンガー」
 というものの存在であった。
 それまで、少々のことには、自分が発想する理論と、そこまでかけ離れていなかったことで、ある意味、発想をスルーしてきたのだが、実際にその存在を考えてみると、
「逆に、自分の発想がピタッと嵌ってしまうというドッペルゲンガーに対して、今度は興味津々になる」
 ということであった。
「ここまで自分の発想がぴったりと嵌ってしまうと、気持ち悪い」
 と感じた。
「自分が興味を持つのは、ある事象がある場合に、自分の常識の範囲で考えてみた時、最初はしっくりとこない考えが頭をよぎった時、印象深くなってしまったことで、そこから、自分の頭をフル回転させ、何とか、自分の理屈に合わせるかのように、理解しようと努力することで、理解できた時は、すっきりと自分の中で理解できているということで、そこから他の発想に行きつくことができる」
 という発想に行きつくことで、自分の発想を先の世界に発揮できるという思いを強く抱くのであった。
 だが、この
「ドッペルゲンガー」
 というものを初めて聞いて、自分が、その存在というものを人から聞いた情報だけで、理解しようと、いつものように発想をめぐらせてみると、その時、いつもは、段階的にどこかで、
「発想の転換というものを余儀なくされる」
 ということになり、そこから、自分の転換によって、先に進むべくエネルギーが発揮されることで、自分の力にもなり、発想の転換が、新たな証明を生むことになると自覚できるのであるが、今回のドッペルゲンガーというものに関しては、自分の発想が、段階を踏むことはなく、どんどん膨れ上がってくることで、
「時間に比例して、膨れ上がる発想が、きれいな直線を描く」
 ということであった。
 今までの発想が段階的になるというその動きというのは、
「まるで、階段グラフ」
 のようなものであった。
 小学生の頃に習った、
「グラフの中でも、少し異色な存在」
 ということ頭の中に残った、
「階段グラフ」
 というものの存在は、
 そのたとえとして、思い出されるのが、
「タクシー料金」
 といえるものだった。
 タクシー代というのは、まず、最初に一定距離は、
「初乗り料金」
 と呼ばれ、その距離は、一律の値段であり、さらに、それを超えると、いくらか値段があがり、そこにも一定距離は同じ値段となり、そこから先は、値段が上がり、2段階目と同じように、値段が、
「ある一点を境に1段階上がっていくということを繰り返す」
 というものであった。
 その形が、階段というものと似ているということで、
「階段グラフ」
 と呼ばれるのである。
「ドッペルゲンガー」
 というものを考える時、普段であれば、非礼を描くような直線的なグラフを思い描くのであるが、この時は、最初から話を聞いていて、
「いきなり階段グラフというものを想像したのだ」
 ということであったのだ。
「階段グラフ」
 というものを、最初からイメージするということは、今までもなかったし、これからもないだろうと、その時までは思っていた。
 たぶん、その時までは、普通の比例系のグラフで理解できるだけのものだったに違いない。
 もし、簡単には理解できない場合に、やっと、
「段階的に理解する」
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次