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都合のいい免罪符

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 と思っている連中が多いとすれば、想像以上に、学力レベルは高い連中が多いことだろう。
 そうなると、
「自分の成績では、よくて、中の下くらいで、下手をすれば、下の中くらいのランクになるだろう」
 として、自分の成績のレベルが、さらに自分のプライドを傷つけることになる。
 今までの自信とプライドが少しでも傷つけられると、どこまで自分の自意識が保てるかどうか、自分でも正直自信がない。
 あくまでも、自分に自信を持てたのは、
「プライドを保てる範囲内だったから、うまくいっていた」
 ということであり、それが、根底から崩れると、どうしようもないということになったとしても、それは無理もないことになるであろう、
 それを考えると、
「俺は、とても、そんな状態ではいられないだろう」
 と考えた。
 そして、もう一つ考えたのが、
「自分が、落ちこぼれになったら、どうしよう」
 ということであった。
 母親やまわりの大人たちが、
「落ちこぼれに対してどのような見方をしているか?」
 ということをしっかりと見ている。
 それだけではなく、何よりも、自分もそんな大人たちの目線で、同じように、落ちこぼれというのを見ていて、しかも、最悪なことに、それが、
「他人ごと」
 としてしか見ていない・
 ということが、一番の問題だったのだ。
 というよりも、
「他人事としてしか見ることができない」
 ということである。
 いかに、自分にとっての他人というものが、どういうものなのかというと、
「いくら、必至になって自分のこととして見ようとしても、どうしても、他人事としてしか見ることができない」
 つまりは、
「他人事としてしか見ることができないというのは、それだけ、自分の頭の中が、逃げる態勢になっている」
 ということでしかないからであった。
「どこから逃げるのか?」
 そして、
「どこへ逃げようというのか?」
 まったく見えていない。
 それが、
「他人事として見る」
 ということであり、
「逃げ腰になっている」
 ということになるのであろう。
 それを考えると、
「自分には限界がある」
 ということを自覚しているにも関わらず、本来であれば、
「それだったら、世の中に限界があるはずなのに、その根拠が見当たらない」
 ということで、
「世の中は無限だ」
 と考えると、言い知れぬ恐ろしさに包まれるということが、不気味で仕方がなくなるということであった。
「自分が考えていることの中に、想定していなかったことがたくさんあると考えると、その恐ろしさというものが、無限にある」
 と考えてしまうのだ。
 無限というものは、可能性というものを、発想として、どんどん広げることなので、
「気持ちに余裕が持てる」
 ということでもあるが、それが、
「不安」
 ということが少しでも絡んでくると、
「余裕というのが恐怖に変わり、次第に、広がってくるものが、自分を苦しめることになる」
 という思いに駆られるのであった。
 だから、大人から見れば、受験だって、
「やってみればいいじゃない。挑戦することは悪いことではない」
 というのだった。
 その時に子供が感じることとしては、口には出さないかも知れないが、
「何をのんきなことを言って、他人事だからいえるんだ。人の気も知らないで」
 ということになるのだ。
 そう、
「他人事でしかないのだ」
 つまりは、まわりが、人の気も知らないで、他人事でいようとするから、
「人のいうことを、まともに信じられなくなる」
 それまでは、そこまで人の言葉に対して、疑いを持っていなかった二宮が、最初に疑ってかかったというのが、
「受験を勧める、親やまわりの大人たち:
 に対してだった。
 その時感じたのが、
「なんて無責任なんだ」
 ということである。
 それまでは、
「無責任」
 という言葉は、自分に対して言われるものだと思っていた。
 それは、特に小学生の低学年の頃にであった。
 もちろん、成績が悪かったからで、母親などは、
「お父さんの顔に泥を塗らないで」
 と言ったものだった。
 昭和の頃であれば、そんな言われ方をしていただろう。
 年功序列であったりしたので、そんな中で、他の人に比べて、出世が早かったりなどすれば、
「出世競争に勝った」
 ということの裏付けになり、
「自慢してもいいレベル」
 ということであっただろう。
 もちろん、自慢をするには、それだけの結果というものが、形となっているということだからであろう。
 だから、家族としても、
「家庭の誉れ」
 といってもいいくらいに、お祝いをしたり、自慢の種になったりしたものである。
 だが、二宮は、それが実は嫌だった。
 というのも、
「いくら家族のことだとはいえ、何で自分のことでもないのに、そんなに自慢ができるんだ?」
 と考えたことであった、
 確かに、学校でも、スポーツなどで全国大会に出場する生徒を、学校が、
「全面的にバックアップ」
 ということで、学校から横断幕に、
「祝」
 と書いて、宣伝していたりする。
 田舎などでは、最寄りの駅にも、同じような宣言を書いていた李して、
「地元の誇り」
 などといって、喜ばしいといわんばかりに宣伝しているではないか?
 それを見ていて、
「なぜなんだ?」
 としか思えない。
 というのは、
「確かに、自分のことではないので、嫉妬心が強く表れていて、それが、我慢できない」
 ということになるのであろう。
 それは、
「その人に自分がなった時のことを想像して、重ねてみてしまう」
 ということだからだろう。
 本当にい羨ましいという気持ちから、
「俺も頑張って、いずれは、あの位置にいるのが自分でありたい」
 と思う。
 しかし、
「今の自分でなければ嫌だ」
 という気持ちが強くあるのだ。
 ただ。それだけではない。
 もう一つ大きい思いが、別のところでくすぶっているからだった。
 特に、思い出すのが、
「通りゃんせ」
 の歌であった。
 内容と解釈は、まったく違っているのかも知れないのだが、その一つとして、
「行きはよいよい、帰りは怖い」
 というところであった。
 そう、
「全国大会への出場が決まって、県を挙げての、壮行会のようなものを営んでくれるのだが、もし、決勝戦まで進めば、報告会ということで、堂々と、県庁に、報告にいったり、マスゴミが、たたえてくれるのだろう」
 しかし、決勝前に負けてしまえばどうなるのだろう?
「行く時は、新幹線の駅まで皆来てくれて、万歳三唱してくれたのに、帰ってきた時は、出迎えなどまったくなく、そのまま寂しく学校に帰るだけである」
 ということだ。
 戦っている時は、
「一回戦で負けはしましたが、頑張りました」
 ということで、決して悪く言われることはない。
 ただ、それも、
「勝利者に対しての賛美を高めるために、敗者に対して、変なことを言わない」
 という心遣いのようなものなのであり、何も、
「誰も敗者のため」
 などと思っている人などいるわけもない。
 それを思うと、新幹線の駅に降り立って、数日前には、
「万歳三唱」
 までしてくれた人たちが一人もいないということで、余計に、
作品名:都合のいい免罪符 作家名:森本晃次