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襷を架ける双子

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 と考えたのも、無理もないことであっただろう。
 しかし、それでも、結局。
「日本は敗戦したのだ」
 そもそも、
「勝ち目がなくて、いかに、敗戦での状態を、有利な形にできるか?」
 ということしか、日本の生きる道はなかったのだ。
「だったら、最初から戦争などしなければいいではないか?」
 と言われるかも知れないが、
「そんな単純なものではない」
 ということであった。
 久保少年の父親は、結局、南方で戦死することになったのだが、
「久保という男はある意味天才だった」
 と言われていた。
 戦時中は大ぴらにはそれを言えなかったのだが、彼は、戦争中に、近しい人にだけ、この戦争の隠された部分や、
「政府がどうすればいいのか?」
 という模索に対して、戦後に明らかになった部分を、最初から裏付けるようなことを言っていたのだ。
 元々、父親は新聞記者だった」
 というおともあって、
「結構、戦争というものが、どういうものなのか?」
 ということは分かっていたのだった。
「今度の戦争は、まず勝ち目はないだろう」
 ということが、大前提で、
「このまま戦争を続けるのは自殺行為であり、どこかのタイミングで、講和に持ち込むしかないわけだから、そのタイミングが難しく、日本政府や、軍部には無理だろう」
 ということを唱えていたのだ。
 もちろん、新聞に書くことなど御法度で、話をするにしても、
「よほど口が堅い人が相手でないと、自分が危ない」
 と思っていた。
 だが、やはり、彼の考えもそれなりに甘かったのかも知れない。
 実際に、特高警察から目をつけられてしまったようで、他の人のように、
「逮捕、拷問」
 ということはなかったのだが、それよりも、
「南方戦線の第一線に、赤紙が来る」
 ということになったのだ。
 その瞬間。
「ああ、結局こうなったか」
 と思ったという。
 彼は、こうなることは覚悟していて、戦争にいったらいったで、
「潔く戦う」
 というつもりでいた。
「逆らってもどうなるものでもないし、逆らうことで、家族がひどい目に遭うという理不尽なことになるのは、承諾できない」
 と思っていた。
「運命に逆らうことをしようとも思わないし、これが自分の運命ということであれば、日本も運命というのも、大したことはない」
 と思うのだった。
 彼は、
「とにかく天才児だ」
 と子供の頃からいわれていた。
 というのは、
「実は、俺は双子で生まれてきたんだ」
 と奥さんに明かしたことがあった。
「えっ、そうなの?」
 と意外そうに聞くので、
「ああ、俺は、生まれた時は、双子として生まれてきたんだけど、兄が生まれ落ちてすぐに、死んでしまったんだよ」
 というのであった。
 母親は、昔からの言われ方として、
「双子で生まれると、天才児が多い」
 ということを知っていた。
 だから、
「ああ、なるほど、夫が天才だといわれるゆえんはそこにあったんだ」
 と思うのだった。
 久保は、結局、南方戦線に配属になり、そこから最終的にサイパンに向かい。そこで、
「玉砕」
 という運命をたどったのだ。
 最初から、死を覚悟はしていたが、それでも、少しは、
「祖国のために、政府が早めに戦争終結を考えてくれる」
 ということを望んではいた。
 しかし、それはあくまでも、
「一縷の望み」
 であり、他の人とは、考え方が、
「一線を画していた」
 といってもいいだろう。
 大日本帝国というのは、そんな時代において、
「どうすればいいのか?」
 ということを考えるよりも、まずは、
「天皇陛下のため」
 と考えるというように、教育されている。
 だから、軍人が最後の際に叫ぶこととして、
「天皇陛下、万歳」
 というではないか。
「組織的な戦争は不可能になった」
 ということで、物資不足であったり、兵の数が減ってきているということで。
「すでに、戦争にはならない」
 ということは、一目瞭然であった。
 そうなると、
「相手を巻き込んでの、一撃必殺しかない」
 ということになる。
 その戦法として考えられたのが、
「片道の燃料しか積まず、相手空母に体当たりする」
 という、いわゆる、
「カミカゼ特攻隊」
 というものがそれだったのだ。
 彼らが、
「遺書」
 ということで、家族に手紙を書いているのだが、その文章が、
「今でも涙を誘う」
 ということで、
「終戦記念日」
 と言われる日に、よくドラマとして描かれたりしていた。
 最近では、
「そんな暗いイメージの作品を放送することはなくなった」
 といえるが、
「すでに、時代は、80年近く過ぎていて、誰もそんな暗い話を見ようとしない」
 ということで、
「視聴率が悪いのは、必至だ」
 ということで、製作もされないのだろう。
 そもそも、
「終戦記念日」
 という言い方もおかしなもので、本当であれば、
「敗戦ではないのか?」
 ということである。
 しかも、8月15日というのは、終戦記念日だといわれるが、あの日はあくまでも、
「天皇による玉音放送が流された」
 ということであり、
「国際的には、まだその時点で戦争は終結しているわけではない」
 ということであり、
「終戦というには、平和条約に当事者国が、調印した時」
 ということになるのだ。
 というのが、正論ではないだろうか?
「だから、敗戦と言わずに、終戦というのか?」
 ということなのかも知れない。
「無条件降伏を受け入れて、日本は自らが戦争をやめるのだ」
 ということで、
「相手に屈服したわけではない」
 ということが言いたいだけなのかも知れない。
 ということになるだろう。
「確かにそうなのだろうが、日本の勝利を信じて死んでいった人は、浮かばれない」
 ということも言えるであろう。
 ただ、この考え方というのは、
「そもそも、日本軍が、戦争をやめることができなかった」
 と理由として、
「死んでいった英霊たちに、申し訳がない」
 ということが一番強かったのではないだろうか?
「天皇陛下のためであれば、死ぬことも惜しまない」
 という教育を受けてきて、実際に、戦時体制において、その教訓めいたものを、心のよりどころにするということで、
「戦争完遂」
 ということを目指しているのである。
 国民としても、
「一人でも、戦争反対などといって、大きな列を乱すやつがいれば、その統制はもろくも崩れ去るのではないか?」
 ということが分かっていたということである。
 だから、
「特高警察」
 というものの存在を知っていて、下手に、戦争反対論者とかかわったり、共産主義者として特高警察に目をつけられている人とかかわったりするとどうなるかということも、十分に分かっていることであろう。
 それを考えると、
「特高警察に協力する」
 というくらいの考えは普通にあっただろう。
 だから、
「隣組」
 なる組織の存在も、
「ありだ」
 と思っていたことだろう。
 実際に、戦争が終結しても、
「隣組」
 と似た組織はあった。
 今度は、戦争のためではなく、共産主義を撲滅するという意味での、
「占領軍に協力する」
 という意味での、国家としての秘密組織というものであった。
作品名:襷を架ける双子 作家名:森本晃次