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襷を架ける双子

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 昭和の終わりから、平成に至る頃の推理小説というと、
「一つのパターンに則った形の話が、その作家の色として、専売特許と言われるようになった」
 といえるだろう。
 つまりは、
「密室トリックといえば?」
 であったり、
「ルポライターが探偵をする小説」
 などというのもあったりした。
 だから、
「一つのジャンルを確立すれば、似たような話であったり、パターンが一緒であっても、内容によっては、読者や視聴者は飽きがこない」
 といってもいいだろう。
 ドラマなどでは、時代によっては、
「このジャンルのドラマは、ゴールデンでは鉄板だ」
 と言われる話もあったりする。
 例えば、昭和から、平成の後半にかけて、ずっとゴールデンでは幅を利かせていたのが、
「時代劇」
 というジャンルである。
 たとえば、
「水戸黄門」
 であったり、
「当山の金さん」
 などがそうである。
 何十年も、途中で俳優が変わることはあっても、ストリー的にはほとんど変わりない。
「水戸黄門」
 などは、毎回のように、黄門様が、助さん格さんを連れて旅をしているのだが、いつも、
「悪代官と、悪徳商人がつるんで、庶民に迷惑をかける」
 ということである。
 特に時代は、
「士農工商」
 という身分制度のあった時代。
 ちなみに。身分制度は、三代将軍家光の時代から始まっていて、水戸黄門の話は、
「犬公方」
 で有名な、五代将軍綱吉の時代なので、時代考証的には間違っていない。
 しかし、実際に、黄門様が、
「諸国漫遊」
 というものができたなどということはありえない。
 なぜなら、黄門様には、
「大日本史」
 という歴史書を著したという事実があるのだ。
「諸国漫遊などができるはずがないのだ」
 ということである。
 だから、水戸黄門というのは、実際には、関東でも、江戸から少し行ったくらいのところくらいまでしか行ったことがないはずである。
 しかも、不思議なのは、
「どうして、庶民が、印籠を見ただけで、水戸黄門だ」
 と分かるというのだろうか?
 徳川家であれば、誰だって持っているわけで、普通なら、
「将軍家では?」
 と思うはずなのに、なぜなのだろう?
 もっとも、
「こちらにおわすお方をどなたと心得る」
 という口上とともに名前をいうからであるが、たまに、すぐに、
「黄門様だ」
 と分かる時があるのだ。
 それを思うと、
「いかにもおかしい」
 ということのなるのではないだろうか?
 もっといえば、学校で勉強していて、江戸幕府の仕組みであったり、誰が、どこの藩主かなどということは、藩士であれば分かっているかも知れないが、商人などの庶民が知っているというのは、どういうことなのか?
 と誰も思わないのだろうか。
 商人などは、確かに、それくらいのことは知っておかないと、商売にならないということかも知れないが、庶民の人が知っているというのもすごいことである。
 江戸時代であれば、庶民といえば、
「字を書けない」
 あるいは、
「読めない」
 という人もたくさんいるだろう。
 そんな時代に、教科書のようなものがあったとしても、それを読み書きもできないというのに、
「水戸黄門」
 という存在を分かっているというのは、少しおかしなものだといえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「時代劇というのは、半分はフィクションで、かなり盛る形で、ストーリー展開を面白くしていて、エンターテイメント性を豊かにしているんだろう」
 ということになる。
 だから、見る人が飽きないということなのかも知れない。
 歴史関係の小説に、
「時代小説」
 というものと、
「歴史小説」
 というものとの二つがあるという。
「歴史小説というものは、基本的には、史実に則っていて、時代考証もしっかりしていなければいけない。つまり、誰か一人にスポットライトを当てれば、まるで伝記小説のような形で、書かなければいけない」
 という。
 だから、
「歴史小説というものを読んだ人は、それを事実だということで信じてもいいということになる」
 といってもいい。
 歴史の勉強をするという意味で読むのであれば、歴史小説ということになるであろう。
「時代小説というのは、逆に、ノンフィクションである必要はない。もちろん、登場人物に実在の人物がいてもいいし、その人が行ったことでもないことを面白おかしく変えてもいい」
 というのが、時代小説である。
 あくまでも、
「エンターテイメント性を重視するものであり、下手をすると、歴史が変わっても構わない」
 ということだ。
 歴史に、
「もし」
 ということはありえない。
 と言われるが、時代小説では、その、
「もし」
 があってもいいのだ。
 ただ、面白くなければ、まったく意味がない。エンターテイメント性を生かすという意味で、時代背景が、
「歴史上の時代だ」
 ということで、史実に則る必要はまったくないということになるのだ。
「輪廻転生」
 という言葉があるが、
「人間というものは、生まれ変われるものである」
 という発想である。
 ただ、これも宗教であったり、その中でも宗派によって、いろいろな考えがあったりして、そこから、
「どう生まれ変わるのか?」
 ということにかかわってくるというものである。
 ある宗派の話であるが、
「死後の世界を4つに分けて、一つは、神の世界。つまりは、彼らは生まれ変わることもなく、ずっと極楽という神様仏様の世界で暮らすことになるので、人間に生まれ変わることはない」
 というものである。
 もう一つは、
「神になるための、途中の道で、一種の修行の世界というか、菩薩の世界のようなもので、これも、人間に生まれ変わることはない」
 ということだ。
 もっとも、この二つというのは、ほとんど人数的には少ない。一種の、
「エリート中のエリート」
 といってもいいだろう。
 そして、3つめであるが、これが、いわゆる、
「死んでからいく人の、一般的な世界」
 ということで、
「人間に生まれ変わるための準備をする世界」
 といってもいいだろう。
 これが、宗教によっては、一種の天国と呼ばれるところなのかも知れない。
 そして、最後は、どの宗教にも共通しているといってもいい、
「地獄の世界」
 である。
 この世で何か重大な悪いことをしたために、
「地獄に落ちる」
 というものだ。
 一度地獄に落ちてしまうと、這い上がることはできないとも、
「生まれ変われるとしても、それは、人間以外のもの」
 といってもいいだろう。
 そして、
「天国と地獄」
 という二極性の考え方の世界では、ある意味、
「地獄以外が天国だ」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、これを考えてみると、
「神様仏様」
 として君臨する人は、ごく少数であるだろうが、少なくとも、地獄に落ちる人は相当数いることであろう。
 世の中の三分の一の人が地獄に落ちるとしても、人間に生まれ変われる唯一の世界にいく人は、単純に考えて。三分の二であるといえるだろう。
 となると、人間の数は、次の世代になると、
「三分の二に減ってしまう」
 ということになる。
作品名:襷を架ける双子 作家名:森本晃次