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襷を架ける双子

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「死ぬこと自体は、怖くはないし、この世に未練もない」
 と思うのだった。
 本来であれば、
「あの世が存在して、今と同じ環境があるのであれば、今度こそ、研究に没頭できればいいな」
 と思っていたのかも知れない。
 しかし、死を選んでから、死んでいく気分になっていくと、
「俺は何を研究していたのだろうか?」
 と、次第に、
「この世での記憶が、どんどん消えていく」
 ということを感じるようになっていった。
 もし、死を後悔する時が存在したとすれば、意識が薄れていくこの瞬間だったのであろう。
「死ぬ」
 ということ自体に怖さはないのだが、却ってそれが怖かったのだ。
「本来死ぬということは、恐怖を伴うものだ」
 と思っていたのに、死を目の前にしても、恐怖はなかった。
 むしろ、恐怖というよりも、どこから来るのか分からないが、恐怖に類似したものがあり、
「れっきとした恐怖とは違うものだ」
 と感じるのが、気持ち悪かったのであった。
 そう思うと、
「本当に生まれ変わることができるのだろうか?」
 と考えるようになった。
 そもそも、生まれ変わるという発想は、
「自分に生まれ変わることができるのか?」
 ということを度返しした張痩であった。
 考えてみれば、生まれ変わるということは、
「もう一度赤ん坊から生まれてくる」
 ということであり、知能としては、
「ゼロからの積み重ね」
 というものでしかないということになるだろう。
 実際に、
「死というものを怖い」
 とは思っていなかったのは事実であり、目の前に死が迫っている時でも、怖いとは思わなかった。
 その発想は、
「感覚がマヒしている」
 といってもいいもので、
「こんなに楽なものだったら、もっとたくさん自殺者がいてもいいのに」
 と思うくらいであった。
 それだけ、
「死」
 というものに対して。感覚がマヒしているのであり、もっと言えば、
「この世に未練というのも、本当にない」
 ということなのかも知れない。
 この世で生きてきて、人間というのは、基本的に、
「何かを達成させたい」
 という気持ちがなければ、生きていくのは難しいだろう。
 実際に、
「平和ボケ」
 した今の時代であれば、
「生きている時の感覚はマヒしているかも知れないが、死というものを目の前にした時は、本当に、怖気ずくということになるのではないか?」
 と言われる。
「楽しいことをしたい」
 というのが、生きる目的だとすれば、
「あまりにも、目の前のことだけではないか?」
 と思うのだった。
 確かに、目の前のことが楽しければ、
「無駄な時間を使ったとは思わないので、その時間に充実感があった」
 ということで、
「また明日も味わいたい」
 と思うことだろう。
 それが、
「一日一日のルーティン」
 ということになり、それが生きがいだといってもいいだろう。
 しかし、そこに、達成感というものはない。
 実際に、
「達成感」
 というものがなくても、人間は、楽しければ生きていけるというものではないだろうか。
 逆に、
「達成感があれば、満足感がなくとも生きていけるのであろうか?」
 と考えると、
「そうもいかない」
 といえるのではないかと思うのだった。
 というのは、
「達成感の延長に満足感がある」
 ということで、その間に存在しているものこそ、
「生きがい」
 であり、
「皆が、手に入れたい」
 と思っているものだということで、
「満足感」
 というものがあり。そこから、
「達成感」
 が得られなければ、生きがいは手に入らないと思うのだった。
 つまりは、
「達成感」
 というものから、
「満足感」
 というものを得ようとするのが、人間の本能であり、理屈としては、
「満足感」
 というものから、
「達成感」
 にたどり着こうとする。
 どちらが正しい道のりか?
 ということは、正直ハッキリと分からない。
 それが分かるのであれば、
「世の中というのは、もう少し楽しみというものがあってしかるべきなんだろうな」
 と感じるのであった。
 芸術家などには、結構自殺者が多かったりする。
 彼らは、ここでいう、
「満足感」
 と
「達成感」
 というものの狭間に存在している意識を強く持っていて。余計にその虚しさなるものを絶えず感じているのかも知れない。
 それを思うと、
「自殺者が多い」
 ということも分からなくもないのだろう。
 この世において、
「未練」
 というものを考えた時、
「この思い、前にも感じたことがあるような気がする」
 という、一種の、
「デジャブ」
 というものに陥るのであった。
 それが、どれくらい昔のことだったのかが分からないからだ。
 思い出した時は、
「まるで、昨日のことのようだ」
 と思うのであって、
「死を前にしたから、思い出しただけだ」
 ということで、それが、
「死後の世界」
 で感じていたことではないか?
 と思うと、
「なるほど、輪廻転生というものを信じている感覚は、まさに、その死後の世界というものだけに自分が特化して考えるからではないだろうか?」
 と感じたようだった。
 この世において、
「未練というものを、どこかに置いてきた気がする」
 というのは、デジャブを考えたのは、今の世ではなく、前世なのか、それとも死後の世界のことだったのか分からないが、少なくとも、
「今のこの世ではない」
 ということだからなのかも知れない。
 実際に、輪廻転生というものを感じたのは、あの世の記憶が自分にはあったと思っているからであった。
「あの世というのを覚えているのは、決して死というものを怖がっていなかった証拠なのではないか?」
 と感じたからであった。
 輪廻転生というと、
「死後の世界で、生まれ変わる準備をして、また新たな命をもらって、生き返る」
 ということを単純に考えるが、よくよく考えてみると、
「一体誰に生まれ変わるのか?」
 ということである。
 時代も違えば、世界情勢も違う」
 ということで、
「生まれ変わったとしても、同じ人間であるはずがない」
 と考えられるとすれば、
「だから、生まれ変わったということが、来世では分からないような仕掛けになっているのか?」
 と考えられるのである。
 確かに、生まれ変わった時、
「生まれ変わりだ」
 ということを意識させないという理由が存在するとすれば、それは、
「まったく違う人間としてしか生まれ変わることができない」
 ということだからであろう。
 そして、何といっても、
「死んでしまわないと、生まれ変わることはできない」
 というのは当たり前のことである。
 生まれ変わるということは、
「別人になっている」
 ということが大前提ということであろうか。
 一人でも、同じ人間が存在するのであれば、
「社会全体が、その人が存在していた時代とまったく同じ世界でなければいけない」
 ということになるのではないか?
 と思うのだった。
 だから、
「生まれ変わりを信じるとすれば、そこには、記憶は一切存在しない」
 ということになるだろう。
作品名:襷を架ける双子 作家名:森本晃次