歴史が答えを出す周期
というものの崩壊が、ここにきて、ツケとして回ってきたといってもいいのではないだろうか?
そんな時代を、最近、高橋は考えるようになり、それが、徐実に見えてきたのは、
「世界的なパンデミック」
という大きな事件が、世の中の仕組みを露骨にあらわにしたことで、表面化してきたことだといえるだろう。
政府のように、
「給料さえ上げれば何とかなる」
という単純な問題ではない。
もし、
「給料さえ上げれば、問題のほとんどが解決する」
などという、
「お花畑的な発想」
を持っているのだとすれば、本末転倒なことであり、世の中が、
「うまくいくはずがない」
ということを証明するようなものである。
「海外で、戦争に巻き込まれた国に、ポンと金を出す」
というのは、
「お金が有り余っている国であればいいが、ただでさえ、借金で首が回らないといっていて、しかも、世界的なパンデミックにて、国土が焦土と化した、かの戦争における、国破れて山河在りを彷彿させる状態で、よく、他の国に金をばらまけるものだ」
ということである。
それこそ、
「国の自殺行為」
といってもいいだろう。
「余命数か月」
ということが分かっていて、使い切れないだけの予算があるというのであれば、その分だけ、寄付するということはあってもいいだろうが、そうならないようにするための努力もせずに、ソーリ一人のメンツだけのために、血税をばらまかれては、たまったものではなないだろう。
それが、今の日本という国の正体なのだ。
本当の正体
高橋は、自分の小説の中で、
「日本という国は、宇宙人が、なぜかこの国にターゲットを示して、何かの試験的なことをしている」
というような、
「まるで、
「ミニター」
としての、国家というものを、創造していたのだった。
もちろん、全面的なフィクションであるが、
「あり得ないということでもないか」
と思わせる。そんな世の中を彷彿させる物語だった。
そこで、考えたのが、
「戦国時代における衆道」
という考え方だった。
要するに、高橋の中では、
「考えが先に進むにつれて、物語が出来上がる」
というよりも、
「結論が頭の中に浮かんでいて、そこから逆算する」
という考えが強いかも知れない。
しかし、
「小説というのは、時系列でしか進めることはできない」
と思っているので、
「だったら、考えながら、話を進めていく」
ということに掛かっているということではないか?
と考えるのであった。
高橋が、小説を書くうえで、
「室よりも量だ」
ということで考えるようになったのは、
彼も以前は、
「小説家になりたい」
ということで、他の人と同じように、作品を作れば、それを、いろいろな新人賞であったり、文学賞に原稿を送ることで、審査を受けるという形をとっていた。
しかし、ほとんどのところでは、一次審査も通らない。しかも、
「審査に関しての問い合わせは一切受け付けません」
というのは、昔からあることで、一次審査、二次審査の通過者を列記するだけで、それ以外は一切しることはない。
つまりは、
「どこがいかに悪いのか?」
などということはもちろん、
「自分は、不合格になったが、その中の順位としては、どれくらいなのか?」
というのも一切分からない。
それはそうだろう。
新人賞や文学賞というと、その審査をするのは、
「下読みのプロ」
と呼ばれる、一種の、
「アルバイトの連中」
である。
募集要項にある。
「審査員」
と書かれている有名作家の人が目を通るのは、最終選考に残った、数作品だけである。
しかも、応募作品が、500作品あれば、下読みのプロというのが、20人だったとすれば、
「一人で、平均、25作品を読むことになる」
ということなので、それぞれに、感想もいろいろあるわけで、しかも、プロなのは下読みだけで、作品の本質などどうでもいいのであった。
「下読みのプロ」
というのが見るところは、
「文章が体裁を整えているか?」
ということだけである。
「誤字脱字はもちろんのこと、応募原稿としての体裁が整っていなければ、その時点でアウトだ」
ということになるだろう。
もちろん、一人で何十作品も読むことになるので、最後の方は、ある程度惰性になってしまうだろう、
そういう意味で、
「読まれる順番」
というのも、運だといえるだろう。
結局、本当のプロが見るわけではなく、作品の本質にも迫っているわけではない。
そもそも、順位をつけるだけではなく。ただ、
「体裁さえ整っていたら合格。そうでなければ不合格」
ということになるだろう。
もちろん、読んでいて、読みやすい作品が、合格しやすいというのも、当たり前だということであろう。
だから、最終選考までの間に、作品の優劣など、つけられるわけがないのだ。
「下読みのプロ」
だって、ピンからキリまであるわけで、彼らの中には、この程度の審査すら、
「適性的には問題がないのか?」
といえるであろう。
それを考えると、
「小説家になるというのは、果たして目指すところとして正しいのだろうか?」
と考えるのだ。
新人賞を取って、出版社から、
「先生」
と言われ、
「期待の新人」
ということで、その出版社では、一人前ということだが、他ではまったくの無名である。
だから、新人賞などの賞を取ったとしても、あくまでも、
「スタートラインに立った」
というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
問題は、
「次回作が、受賞作よりも面白いかどうか?」
ということであり、作家のプロとして続かないのは、そこにあるからだ。
新しいものを求められるので、
「どんどん、いい作品を書かないと、取り残される」
というもので、ピークを越えてしまうと、そこで終わるといってもいい。
いまさら、
「ミステリー作家」
として売ってきた人が、その限界を感じたからといって恋愛小説を書き始めたとして、それが売れるだろうか?
30年くらい前であれば、
「自分独特の世界を作ってしまえば、○○小説の第一人者」
ということで、
「ベストセラー作家」
というものの仲間入りということで、
「小説家として、生き残る権利、資格のようなものが与えられた」
といってもいいだろう。
ただ、それも、
「今までであれば」
という状況でもある。
というのは、
「時代の流れが許さない」
ということもある。
というのは、
「今は、街から本屋も消えていっているし、コストのかかる、紙媒体における書籍化は難しい」
と言われている。
つまりは、
「ネット小説」
ということで、
「配信で買う」
ということになるのだ。
これは、音楽業界にも言えることだが、紙やCDなどのような媒体を売っているお店で買うか、せめて、その媒体を、通販などで買うかという時代であれば、分からなくもないが、今では、
「ネット配信」
で、スマホの画面で、小説やマンガが読めたり、スマホ自体に音楽再生アプリが入っていれば、ダウンロードして聞くだけのことである。
「媒体」
作品名:歴史が答えを出す周期 作家名:森本晃次