歴史が答えを出す周期
として作ってしまえば、どういうことになるのかというと、
「どれだけ売れるか?」
ということを予測して、作っておく必要があるということだ。
売れると思ってたくさん出版したが、実際には、まったく売れず、本屋などに置いてもらった分、ほとんどが、返品で出版社に返ってくる。そうなると、
「在庫」
ということで、
「倉庫や、そのスペースを確保しなければいけないわけで、それも、いずれ売れるというのであれば分かるが、売れずに返品を食らえば、二度と売れずに、それこそ、オブジェとして飾るしか手はないということだ」
オブジェであれば、一つあればよく、あとのほとんどは、ひどい言い方ではあるが、
「ごみでしかない」
ということになるのであった。
小説家としての、
「スタートラインに立つ」
というだけで大変なのに、
「今のような時代背景」
というものを考えると、
「小説家になる」
ということがどういうことなのかというのも分かるというものだ。
「小説家だけで食っていけるわけはない」
というのは、昔から言われていることで、よくドラマなので、
「小説家デビューは下はいいが、鳴かず飛ばすで、アルバイトで金を稼ぎながらでないと生活ができない」
という人がどれだけいるか?
ということである。
そういう人が、アルバイトで、
「下読みのプロ」
というのをするのかも知れない。
自分がデビューするための老竜門として通ってきた道だ。
「こいつらの中から、デビューする人もいるだろうが、したらしたで、俺と同じ運命をたどるだけだ」
ということになる。
「しょせん、小説家なんてそんなものだ」
と思うと、
「小説家が、食っていけないから、アルバイトをする」
というよりも、
「普通にサラリーマンをやりながら、趣味として好きな小説を書いている方がよほどいい」
ということになるのではないだろうか?
「まずは、生活の安定」
ということを思うだろう。
考えてみれば、小説家になりたいと思った時、誰もが思うのは、
「自分の本が、本屋に並び、本屋の人の作ってくれるポップを見て客が買ってくれる。自分は、編集者から、先生先生とちやほやされ、立場は編集者よりもこっちが上だ」
と思っていたのだ。
しかし、実際は正反対である。
「世の中というのは、金を出す方が絶対的な強さがある」
ということで、立場的には、読者が一番強く、そこから書店。出版社。そして、一番弱いのが、作品を描いた作家ということになるのだ。
もちろん、クリエイターとしての、尊厳はあるだろうが、そんなものは、商売の世界では関係ない。
作家というのは、
「作品を生み出すただの機械」
といってもいいだろう。
だから、
「生み出せない作家は、プロではない」
と言われることになり、自然と消えていくのが、関の山だといってもいいだろう。
今では、大きな商業施設が集まった都心部では、20年くらい前までは、本屋が4,5軒はあっただろう。
「一つのビルには一つは大きな書店があった」
といってもいいくらいだったのに、今では、1軒あるかないかが関の山だ。
しかも、大きな書店があったとして、本のレイアウトはまったく違う。
文庫本コーナーなどでは、昔は、売れる小説家の本であったり、直木賞作家であれば、たくさんの本が置いてあったものだが、今では
「誰が直木賞作家だったのかということすら分からない」
といえるだろう。
昔であれば、商業作家に対しての宣伝はすごかったが、今ではおとなしいものだ。
もっとも、
「宣伝をすれば売れるというものではなく、手に取ってみたいという本をいかに演出するかということで、難しいところになっている」
といってもいいだろう。
マンガでも同じことだし、音楽でも同じことだ。
「配信」
というのがいいのか悪いのか、やはり、
「媒体あっての芸術だ」
と思っている人は古いのだろうか?
大団円
高橋の小説は、SFっぽいものであって、その話としては、
「日本人というものが、宇宙人に狙われた」
というところから来ていた・
元々その発想が出てきた原因としては、まず、
「人間消失事件」
というのが、
「日本にだけ起こった」
ということであった。
もし、他の国でも興っていれば、それこそ、
「陰謀論」
のようなものが渦巻き、
「何を今さら」
ということであった。
昔のような、共産主義国の威信から、誘拐ということでもなく、消失する理由が分からない。
しかも、日本だけということで、日本人が狙われる理由が分からなかったのだ。
そもそも、
「日本が狙われているのかどうかも分からない」
ひょっとすると、
「日本のどこかの組織が、何かの目的で暗躍しているのかも知れない。
もしそうであれば、
「これは、誘拐ではなく、自作自演の何かの作戦なのかも知れない」
とも考えられるであろう。
だから、一概に、大きな騒ぎにすることもできないというもので、緘口令を敷くというのも、無理もないことだ。
いたずらに騒ぎを大きくして、最後に、日本という国に、何かの犯罪組織があり、国家が認識できていないということで、本当にどうすればいいのか? ということになるのであろう。
高橋は、この話において、一つ考えたのは、昔の特撮ドラマであった発想の中で、
「人間消失事件」
というものがあったが、それは、2つの話で使われた発想であった。
脚本家が同じだったので、もちろん、同じような話になっても仕方がない。ただ、発想としては面白かった。
片方は、宇宙人がやってきたという、普通の侵略なのだが、片方は、
「未来が、別の星にある」
というどちらかというと、
「時空の捻じれ」
のような話であった。
この話は、
「宇宙あるいは、未来人が、
「若い労働力というものが不足している、それを求めて、人類の肉体に活路を見出し、赤い人を、自分たちの世界に連れて帰るという話だった。
「その後、どうするのか?」
ということは、ハッキリとしていないが、たぶんであるが、
「人間を奴隷同然にこき使う」
ということだったのだろう。
さすがに、それをあからさまにいうと、問題になるからであり、問題はそこではなく、今から半世紀以上も前の特撮番組で、よく、今問題になっている、
「少子高齢化問題」
のような、
「若い肉体」
というものを欲しがるということになったのか?
ということである。
その脚本家が分かっていたということであろう。
時代としては、やっと、テレビが普及してきて、
「そろそろ、カラーテレビが出てくる」
というそんな時代である。
その頃は、労働人口は充分にいたはずで、逆に、今でいう、4、50歳と言われる年代は、
「戦争で、戦士している人の多い年齢であって、世の中は、まだまだ若い人が多かったという時代であったはずだ」
だから、働き手は充分にあり、人手不足ということもなかっただろう。そんな時代によく、
「人類の若い肉体をほしい」
という宇宙人であったり、未来人というものを創造できたのか?」
ということである。
それを思えば、
作品名:歴史が答えを出す周期 作家名:森本晃次