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歴史が答えを出す周期

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「殺人は許されない」
 ということである。
 それなのに、今起こっている
「アラブとイスラエルの戦争」
 これこそ、宗教戦争であり、
「キリスト教と、イスラム教の戦争」
 ということであり、ずっと累積して、
「人が日常的に殺されている」
 というわけである。
 何といっても、
「戦争が起こる原因の多くは、宗教戦争である」
 と言われている。
「かつての十字軍であっても、立派に宗教戦争ではないか?」
 ということである。
人を殺めてはいけない」
 ということではなかったのか?
 さらに、一つの疑問を呈するものとして、日本における戦国時代の、
「関ケ原の合戦の前夜」
 というものである。
 戦国大名の中に、
「細川ガラシャ」
 という女性がいたが、この人の物語が、
「何か、辻褄の合わない発想」
 という風に見えるのは、気のせいであろうか。
 彼女もキリスト教で洗礼を受け、
「ガラシャ」
 の称号を得ていて、世の中が、戦国時代ということで、
「戦国の悲劇の女性」
 と言われているのであった。
 細川ガラシャというのは、洗礼名であり、本名は、
「玉」
 という。
 夫は、戦国時代でも文化人としての誉れの高い、細川忠興という、戦国武将である。
 ただ、問題なのは、父親であった。彼女の父親は、
「本能寺の変」
 で、主君である織田信長に対して謀反を起こしたことで、のちに、羽柴秀吉に滅ぼされた、
「明智光秀」
 なのである。
 元々、織田家でも、室町将軍や、朝廷に対して、
「交渉ができる」
 ということで、信長に重宝がられたことで、織田家でも、重鎮とみなされていたのだが、
「延暦寺の焼き討ち」
「母親を見殺しにされた」
「四国平定で顔をつぶされた」
「現在の丹後や摂津などの領地を召し上げられ、まだ自分の領土になっていない、出雲、石見を切り取り次第に与える」
 と言われたことなどと、数多くの恨みから、信長に反旗を翻したのだったが、なんといっても、
「戦国時代最大の謎」
 と言われている、
「本能寺の変の黒幕説」
 という話が出てくるくらいに、謎な部分が多いのだった。
 しかも、
「本能寺の変」
 が起こってからというもの、ほとんどの武将が、
「明智にはつかない」
 と表明したことで、孤立無援になった。
 しかも、娘を嫁がせた細川家では、その玉を、幽閉するという強硬手段にまで出たくらいで、
「明智ほどの冷静沈着で、戦上手でもあるはずの男に、誰もつかない」
 ということが、そもそもおかしなことである。
 それこそ、
「本能寺の変」
 というものが、最初から仕組まれていたものだとしか思えないではないか?
 結局、明智光秀が滅ぼされてから、弾は幽閉を説かれ、キリスト教に入信し、旦那に尽くすという運命を受け入れた形だったのだ。
 しかし、豊臣政権が危機に遭遇した時、夫の忠興は、
「家康側」
 についていた。
 関ヶ原前夜」
 として、家康が、上杉征伐に出かけた時、相手の三成が、
「好機至れり」
 とばかりに、挙兵をしたのだ。
 その時、家康の討伐軍として大阪を離れていた武将たちの屋敷に、西軍は襲い掛かり、
「家族を人質にして、こちらにつかせよう」
 という戦法を取ったのだ。
 そもそも、光成という男は、配下の島左近のいろいろな作戦を、
「卑怯なことはできない」
 と言って、突っぱねたはずなのに、
「人質にとる」
 ということを卑怯なこととしなかったというのがありなのか?
 ということであった。
 だが、その作戦のせいで、細川屋敷で、光成軍に包囲された玉は、
「このままでは、旦那に迷惑をかける」
 ということで、自害を思い立ったという。
 しかし、
「キリスト教では、
「人を殺めてはいけない」
 ということで、
「自害も許されない」
 ということであった。
 そのために、弾が行った行動とすれば、
「配下の武将に、自分を殺させる」
 ということであった。
 これは、少し、
「どうなのだろう?」
 と考える。
 確かに、
「人を殺めてはいけない」
 ということで、自殺も許されないということであれば、配下の人間に自分を殺させるということになるだろう。
 しかし、そもそも宗教というのは、
「この世で戒律を犯したりしなくて、いい行動をしていれば、あの世で極楽に行ける」
 というような発想からきたのではないだろうか?
 ということを考えると、
「では、配下の人間はどうなるというのか?」
 ということである。
 配下の人間には、自分を殺させるという、
「罪を犯させる」
 というわけで、それが許されるのが、キリスト教だというのだろうか?
 確かに彼は、
「兵士」
 であり、実際に、それまでに、
「何人も敵を殺めている」
 ということになるのだろう。
 しかし、それは、
「一種の屁理屈」
 というものであり、弾の行動は、
「自分が極楽にいくために、配下の人間を犠牲にしてもいい」
 ということなのだろうか?
 配下の人間だって、一人の人間。自分のために、敢えて、その戒律を破らせていいのだろうか?
「彼は信者ではない」
 ということで、差別するのであれば、
「何が宗教の教えだ」
 ということになるであろう。
 それを考えると、弾の行動は決して許されるものではなく、
「自分のために、部下は犠牲にしてもいい」
 ということになるのだろうか?
 戦国時代という特殊な時代だから許されるのかも知れないが、どうにも納得のいくことではない。
 ただ、その時の、
「敵に責められて、自害する」
 という究極の精神状態に追いつめられると、思考回路がマヒするということもありえるということではないだろうか?
「細川ガラシャ」
 という話は、ある意味、
「美談」
 ということで言われているかも知れないが、考えてみれば
「本当に、それが正しいと言えるのだろうか」
 ということになるのである。
 そういう意味で、
「宗教というのは、戒律のようなものがあるせいで、考え方が雁字搦めになってしまうということからか、すべてを納得させるという結論に落ち着くということはありえない」
 と言えるのではないだろうか?
 そもそも、そうであれば、
「最初から、戦争などという悲劇が起こることはない」
 ということになるであろう。
「武士道」
 という観点であれば、
「細川ガラシャ」
 の考え方は、少し違っているように思う。
 これを美談としたのは、ひょっとすると、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
 というところでの、
「葉隠精神」
 から来ているということであろう。
 しかし、そもそも武士道というのは、
「自己犠牲」
 というものでなければいけない。
 ということであれば、
「配下の人間に、自分を殺させる」
 というのは、ありえないということではないだろうか。
 配下の人を考えれば、
「自分を殺したことで、地獄に落ちるのだ」
 と考えなかったのであろうか。
 それが、自己犠牲とは別の考えになってしまったということであろうか?
 それを考えると、
「戦陣訓」
 などのような、
「相手を巻き込んででも、捕虜とならない」
 という発想と結びついてくるのかも知れない。
作品名:歴史が答えを出す周期 作家名:森本晃次