三角形の関係
ということで、どこの国とも同盟を結んできたことのなかったイギリスが、
「遠く離れた、極東で、しかも、弱小国である日本と、軍事同盟を結ぶ」
などということを誰が想像しただろう。
しかし、これが、大きな転機であったことには間違いない。
戦争前夜。
「ロシアに勝てるわけがない」
ということで、戦争には消極的だった人も、ここで、開戦を決意したといっても過言ではないだろう。
それが、大日本帝国の分岐点であっただろう。
ただ、戦争は、想像しているよりも、かなり厳しいものであったようで、特に、戦死者の数が、日清戦争の頃とはけた違いだったことで、大本営では、
「何かの間違いではないか?」
というほどだったのだ。
旅順攻略戦」
においてはそのいい例で、
「日清戦争の時には、一日で陥落させた旅順という、小さな軍港」
だったものが、ロシアに移ってから、大要塞が築かれ、その様子は、とても、
「生きて帰れない」
という仕掛けになっていたのだった。
確かに、日本の戦国時代からの群雄割拠の時代のお城というと、そのような仕掛けが、方々にあったのだが、それを、
「世界の大国」
レベルでやっているのだから、それこそ、
「虐殺のレベルもすごいもので、一日の戦死者が、日清戦争当時と、2桁違っているだろう」
と言われるのも、無理もないことであった。
それでも、何とか旅順を落とし、旅順艦隊を壊滅させたのは、いずれやってくるであろう、ロシアの主力艦隊である、
「バルチック艦隊との決戦」
に向けての、準備行動であった。
陸軍はそのあと、奉天において、大会戦を行い勝利を得ることで、そして、海軍としては、
「日本海海戦」
というもので大勝利をすることで、やっと、講和条約を結べるようになった。
その時、すでに、日露両国とも、
「戦争継続は難しい」
という状態になっていて、しかも、どちらかというと、
「日本の方がその傾向は大きかった」
といってもいいだろう。
だから、アメリカの仲介で、講和条約締結となった時、領土確保はできたのだが、
「賠償金を一銭ももらえない」
ということであっても、一刻も早く戦争を終わらせる必要なあったことで、講和条約に妥協するしかないというのが、日本側の事情であった。
しかし、庶民はそんなことを分からない。
だから、
「戦争に勝って、賠償金がもらえないというのは、どういうことだ? たくさんの死んでいった英霊に対して、申し訳ないと思わないのか?」
ということで、国内では暴動が起こり、それが、
「日比谷公会堂焼き討ち事件」
ということになったのだ。
それが、庶民の怒りであり、外務大臣宅などにも、投石されたりなどと、かなりの暴動に発展したのだった。
その時、
「暴動による治安が保てない」
という理由で、
「史上初としての戒厳令が起こったのだ」
ということであった。
これが、明治期による最初の戒厳令と、その前夜ということであった。
今度は大正時代に入ってからであったが、この時代に起こったものは、
「災害による、戒厳令」
であった。
これは、ちょうど今から100年前くらいに起こったことで、当時としては、
「首都直下型」
といえる、大地震である、
「関東大震災」
だったのだ。
首都圏を中心に、横浜などでも、甚大なる被害を出した。
木造住宅だった時代には、ほとんどの家が火事になり、燃え落ちたわけである。
想像を絶するものがあったことだろう。
元々、テレビもラジオもほとんど普及していない大正時代だったので、情報伝達手段とすれば、今の災害ほど、
「まるで原始時代に戻ったかのようだ」
というほどのことはなかったかも知れないが、
「何をどうしていいのか分からない」
というのは、今も昔も変わっているわけではない。
それを考えると、
「大震災において、治安がマヒする」
ということは分かり切ったことであり、
「戒厳令の必要は、その時点でもあったのだ」
といってもいいだろう。
しかし、とにかくひどかったのは、
「デマが飛んだ」
ということであった。
特に、
「大地震のどさくさで、朝鮮人が、暴動を起こす」
というデマが流れたことで、被災者は、ただでさえ、疑心暗鬼になっているところで、まともに、そのデマを受け入れてしまうことだろう。
しかも、当時の日本は、
「東アジアの他の国の人民を、下に見ていた」
という兆候があった。
そんなデマによって、実際に、多くの朝鮮人が、
「虐殺された」
ということのようだったので、それこそ、
「戒厳令を敷いて、その治安を、戒厳司令官にゆだねる」
ということをしないといけないだろう。
そもそも、戒厳令というのは、
「災害、暴動、クーデター」
などの有事に、治安を確保するために設けられる臨時の政府だということではないのだろうか?
つまり、
「関東大震災」
というのは、完全に、災害である。
災害となると、インフラが破壊され、情報が行き届かないことで、ちょっとした行き違いから、大きな事件になりかねないということになるのである。
これが、大正時代に起こった、
「災害による、戒厳令」
だったのだ。
今度は昭和になってからのことであるが、時代は、
「世界恐慌から始まって、日本における満州事変の勃発と、それによる、電光石火で、満州国の建国、さらには、満州の支配」
という、
「動乱の時代」
だったのである。
そんな時代が、そこから今度は、
「軍内部の、派閥争い」
というものが、見え隠れしていた。
特に、陸軍においての、
「統制派」
というものと、
「皇道派」
と呼ばれるものの、派閥争いが、大きな問題となっていたのだ。
それが次第に、
「軍事クーデター」
という形に変わり、水面下で、計画されるようになった。
それが、表面化したのが、
「226事件」
と呼ばれるものだったのだ。
この事件は、表向きには、
「農村出身の青年将校たちが、日本の将来を憂いて、君側の奸である、天皇側近で、天皇に、自分たちにとって都合のいい情報しかいれずに、偏った軍政になっている」
と訴えていることでの、
「クーデターだ」
ということであった。
しかし、実際に、彼らが言っている、
「君側の奸」
というのは、天皇に、最終決定権をほとんど与えている、
「立憲君主国」
としての大日本帝国天皇は、その決定に際して、かつての重鎮として、今では、
「相談役」
のようなことをしている人たちなので、天皇とすれば、
「一番頼りにしている」
というのも、
「政治の政を行う」
ということで、一番大切なはずの人たちである。
それを、
「問答無用」
で殺害するのだから、その暴挙としても、天皇としては、
「許せない」
と思ってしかるべきであろう。
この時にも、戒厳令が敷かれた。
理由が、
「軍事クーデター」
ということなので、
本来であれば、首相も亡き者にして、内閣を自分たちの派閥で作る直す
ということが目的だったようだ。
しかし、よく考えると、
「軍部に属する青年将校たちが、自分たちの都合で、政府高官を殺す」