三角形の関係
だから、特攻隊の人の遺書などには、育ててくれた親への感謝と、
「天皇陛下のために、立派に死ぬことを喜んでほしい」
ということが、書かれていたりするのである。
それが、大日本帝国というものであり、天皇主権の国家だったのだ。
それが、今の平和ボケといってもいい、日本国にはないものとして、
「戒厳令」
というものがあった。
これは、いわゆる
「有事」
と言われる、特に災害であったり、クーデターなどによって、治安が確保できない場合に発令されるものであった。
というのは、災害などでは、ライフラインも遮断され、情報が錯そうしてしまうことが往々にしてあり、暴動が起こったり、デマのせいで、謂れのない虐殺が起こったりと、
「普段であれば、あり得ない」
と思うようなことが平気で起こったりする。
そのために、
「機能しなくなった自治体に変わって、軍部から派遣された人を、司令官として、一時的な臨時政府を作る」
ということだ。
その司令官が、全権として、最優先として、治安維持に努めることになるのだが、それが、日本における
「戒厳令」
であった。
戒厳司令官の命令は絶対で、もし、自由を一部制限することであっても、
「命令に従う必要がある」
ということである。
特に、大日本帝国の時代に存在した、
「戒厳令」
というものは、今までに3度発令されたのだ。
「明治、大正、昭和」
と、それぞれ、大日本帝国が存在した時代に、一度ずつあったということだった。
まず、最初は、日露戦争終結時のことであった。
日露戦争といえば、
「明治弱小日本と呼ばれていた国が、世界の大国の一角を担うロシアに対して、宣戦布告した」
ということで話題になった。
確かに、その少し前に、アジアの大国で、
「眠れる獅子」
と言われた、清国を、日清戦争によって打ち破っている。
これは、そもそも、朝鮮半島に対しての権益と、冊封関係を結んでいて、宗主国としてのメンツを持っていた清国との闘いだったのだ。
日本は、ロシアの南下政策の防波堤という、
「安全保障」
の問題と、日本の増え続ける人口を支えるだけの食糧問題などもあって、当時鎖国をしていた朝鮮を、砲艦外交で開国させ、さらに、清国からの独立と、近代化を進めていたが、どうしても、そうなると、日本の幕末のように、世情は混乱してしまうのだ。
日本だって、最初は、
「尊王攘夷」
というのが、主流の考えだったものが、
「尊王倒幕」
に変わったではないか。
当時の朝鮮も、
「攘夷」
というものを基本的に考えた旧軍隊と、攘夷思想にあったが、すでに政治から退いていた、国王の父親である、大院君を担ぎ出し、クーデターを起こした、
「壬午軍乱」
であったり、
「日本の明治維新に倣って、日本のやり方で国を改革させよう:
という一派が、クーデターを起こしたが、結局、清国の駐留軍に鎮圧されたという、
「甲申政変」
というものの、二つを経て、
「朝鮮半島をめぐって、日清両国は、一触即発の状態になった」
ということであった。
結局、朝鮮半島で、戦禍は生まれ、戦争となったのだが、意外なことに、日本の圧勝だったのだ。
「この時のため」
ということで、
「富国強兵政策」
というものを、真剣に推し進めてきた大日本帝国と、
「欧米列強に、それまで何度も戦争を挑んでことごとく負けてきたことで、国力が落ちているうえに、実質上の国家元首であった、西太合という人物が、政府を私物化していたことで、軍部では予算が全然足りず、東洋一の軍事大国という面影は、すでにどこにもなくなっていた」
ということであった。
そんな状態で、戦争への士気も全く違ったのだから、そもそもが、
「戦争になるわけもない」
ということで、日清戦争は、スムーズに勝利を得た。
ただ、下関講和条約で得た、遼東半島だったが、それをよしとしない、
「フランス、ドイツ、ロシア」
の三国から、
「遼東半島を返却」
という話が出たのだが、さすがに、その三国と一戦交えるわけにはいかず、不満が残ったが、遼東半島を返したことで得られた賠償金で、さらなる、
「富国強兵」
を進めることになったのだ。
日清戦争に勝てた理由のもう一つに、
「西太合による、贅沢三昧」
というものがあった。
国家が衰退し、亡国となっていくための、典型的なステップといってもいいだろう。
しかも、この独裁制が、その後に起こった、
「義和団事件」
によって、決定的なことになるのだが、それは、
「扶清滅洋」
という言葉をスローガンに、列強に対して反乱を起こした、義和団という団体に乗っかる形で、西太合は、何と、
「9か国に及ぶ、列強に対して、宣戦布告をした」
ということであった。
当然、列強は、
「居留民や、領事館保護のために、派兵してくるのは当たり前だ」
ということで、
「多国籍軍」
というものが形成され、北京は、戦禍にまみれた。
それによって、清国軍など、ひとたまりもなく。結局義和団に乗っかってしまった西太合も、彼らを裏切るしかなくなってしまったのだ。
「列強に宣戦布告など、当時の清国の軍事力、経済力を考えて、限界にきていることも分からずに行ってしまった戦争」
そんなもの、勝てるわけはないということであった。
結局清国は、それから数年で滅亡することになるのだが、日本は、ロシアの脅威と直面していた。
戒厳
日本では、戦争に対して、賛否両論があった。
伊藤博文などの、反戦論者は、
「ロシアに宣戦布告など無謀だ」
ということであったが、他の人たちは、逆に、
「やるなら今しかない」
ということで、その下準備として、
「日英同盟」
を結ぶことができたのは、成功だったといってもいいだろう。
この同盟は、
「両国の、ロシアに対しての、共通の利害というものがあったからだ」
といってもいいだろう。
それが、
「ロシアの南下政策」
だったのだ。
ロシアは、
「不凍港」
というものが欲しかった。
極東であれば、ウラジオストックから、満州を経て、朝鮮半島。このルートを納めった居と思っていた。
ここに、清国から譲渡された、
「満州鉄道」
を、自国のシベリア鉄道の延長戦として、満州の港を、極東基地にしたかったのであろう。
そのいい例が、遼東半島の先端にある、
「旅順港」
である。
ここの旅順艦隊は、ウラジオストックの、
「ウラジオ艦隊」
と合わせて、
「極東艦隊」
というものを形成していた。
だから、旅順港には、東洋一と言われる、大要塞を築くことになったのだ。
イギリスとすれば、
「クリミア半島であったり、アフガンなどが、ロシアの目指す不凍港」
ということで、どちらにしても、イギリスの植民地を脅かすことになるのだ。
日本においての、朝鮮半島が、
「インド」
であったり、
「ギリシャやトルコ」
などの地域だったりするのだ。
それを考えると、
「日本と、イギリスは、立場的によく似ている」
ということで、その当時まで、
「栄光ある孤立」