小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

三角形の関係

INDEX|15ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

「コウモリは、卑怯者扱いされて、他の動物から相手にされず、暗く陰湿な世界での生活を余儀なくされ、まるで、村八分にされているかのようで、気の毒な存在になってしまったのだ」
 ということを感じるだろう。
 しかし、果たしてそうなのだろうか?
 暗く陰湿な場所で暮らしているが、それは、元々の、
「身体の特徴」
 というものが、そういう世界で生きることを、
「コウモリの生態」
 といことであり、
「人間であれば、耐えられるものではない」
 ということから、逆に、そのような生態でいるコウモリが、
「どうして、そうなったのか?」
 ということを、物語として考えた時、そのような、コウモリの話が、出来上がったのではないだろうか?
 それを考えると、
「結局は、人間の傲慢さであり、勝手な思い込み」
 というものではないのだろうか?
 ということである。
「コウモリに限らず、動物がどこに住んでいようと、それは、動物自身が、望んでのことではないだろうか? そうでなければ、神様というものが存在し、その神様が、勝手に決めたことなのかも知れない」
 と言えるのではないだろうか?
 そう思えないのは、
「人間というものが、一番偉いもので、神様の存在というのは、そのことを証明するためのものではないのだろうか?」
 と考えられるからである。
 世界には、さまざまな、
「神話」
 のようなものが存在する。
 そのほとんどに、
「神様」
 という存在があることから、
「神話」
 と呼ばれるのだろうが、ほとんどのところは、
「神様というのは、人間を凌駕する存在」
 と言ってもいいだろうが、しかし、神話によっては、
「神様というのが、一番人間臭い」
 ともいえる神話もある。
 それが、
「ギリシャ神話」
 というものであろう。
 ギリシャ神話というと、
「オリンポスの神々」
 というものが存在し、全知全能の神ということで、
「ゼウス」
 が孫座している。
 そこから、
「オリンポスの十二神」
 というそれぞれに、
「美の神」
 であったり、
「戦の神」
 などと言われる役目のようなものを持った神が、控えているといっておいいだろう。
 しかし、
「オリンポスの神々」
 特に、
「全知全能の神」
 というゼウスというものは、一種の
「欲の塊」
 あるいは、
「嫉妬の塊」
 と言ってもいいのではないだろうか?
 人間のオンナを好きになり、その子を宿したことで、他の女神が嫉妬したりして、その子供に呪いをかけたり、その国を亡ぼすということもあったりするくらいである。
 人間側は、
「神の嫉妬や猜疑心のために、放浪され、最後には、滅ぼされるという運命になる」
 というのは、これほど理不尽なことではないだろうか?
 それを思うと、
「神がすべて、人間を救ってくれる」
 というのは、あくまでも、迷信ではないかと思える。
 宗教的に言われることとして、
「人は生まれながらに平等だ」
 と言われるかも知れないが、
「決してそんなことはない」
 と言える。
 何を根拠に、
「生まれながらに平等だ」
 と言われるのであろうか?
 世の中に差別などまったくなく、貧富の差がまったくない状態で、
「不幸な人が一人もいない」
 という、まるで、パラダイスのような世界でもない限り、人間は、
「生まれながらに、平等だ」
 などということはありえない。
 民主主義のような世界は、
「自由、平等、博愛」
 などと言われているが、実際には、
「自由か、平等か?」
 の二者択一にしかならない。
 民主主義は、
「自由」
 というものを優先させるということで、
「平等」
 というものを犠牲にするということになるのではないだろうか?
「経済においての、自由競争が、平等というものを阻害している」
 と言ってもいいだろう。
 そこで起こってくるのは、
「差別的な待遇」
 であり、
「世の中においては、平等というものを重視するなら、社会主義にゆだねるしかなくなってしまう」
 ということである。
 社会主義という考え方は、
「民主主義の限界から生まれた」
 ということであり、
「民主主義の限界に挑戦している」
 と言ってもいいだろう。
 ということは、
「自由を抑えて、平等を優先する」
 というのが、社会主義の考え方であろう。
 そこで一番考えられることとして、
「民主主義の考え方は、自由なので、国家が自由競争には、関与できない」
 ということである。
「合法でさえあれば、見た目には、詐欺に見えるものであっても、政府も、警察や、司法も介入できない」
 ということである。
 だから、警察というものは、
「民事不介入だ」
 と言われるのだ。
 いくら、民事的に相手を追い詰めることで、相手が自殺をしたとしても、警察には、そのことに対して介入できない。
 それが、刑事的に、
「詐欺である」
 ということであれば、警察が堂々と入り込んでいけるのであるが、その最低が微妙なラインであれば、
「疑わしきは罰せず」
 ということで、
「警察も、国家も、何もできない」
 ということになるのだ。
 しかし、社会主義というのは、基本的に、
「民主主義の限界」
 というものへの挑戦なので、
「民主主義とは真逆の考え方」
 と言ってもいいだろう。
 それが、
「自由」
 と
「平等」
 の優先順位で決まるということだからである。
 だから、社会主義は、
「自由というものを犠牲にして、平等を優先する」
 ということである。
 だから、
「民主主義が、政府は不介入」
 ということであったが、社会主義は逆で、
「平等のために、政府が介入することで、会社や個人の自由は制限される」
 ということである。
「政府が介入するということは、まるで、戒厳令のようなものではないか?」
 ということである。
 戒厳令というものが、
「有事において、国民の自由を一部制限する」
 ということである。
 これは、
「大日本帝国」
 と呼ばれる時代における、
「立憲君主国」
 というものが置かれた立場で執行することができる法律であった。
 しかし、
「日本が敗戦した」
 ということで、諸外国から、
「押し付けられた体制」
 というものが、
「日本式の民主主義」
 と言ってもいい。
 他の国に例のない民主国家として、作成された、
「日本国憲法」
 というのは、その三原則に、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和主義」
 というものであった。
 それまでの大日本帝国の主権者は、天皇だったのだが、それを、国民主権にしたということは、大きなことであり、さらに、
「天皇制」
 というものは存続はさせるが、
「あくまでも天皇は、象徴でしかない」
 ということになるのだ。
 大日本帝国では、基本的には、人権というものは存在したが、
「戦時であったり、災害時など、国民の自由を制限できる」
 という戒厳令を敷くことができるということで、政府や国家にて、国民の自由を制限することになるのであろう。
 しかし、これが、日本国においての憲法では、
「基本的人権の尊重」
 ということと、
「平和主義」
 ということで、
「有事というものはない」
作品名:三角形の関係 作家名:森本晃次