三角形の関係
という力の調整を、兼ね備えているものなのかも知れない。
それを思うと、
「光の強さによって、目立たなければいけないものの調整が、人間の目に無理なく合わせるように、人間の構造はできている」
ということなのかも知れない。
だから、
「赤い色もしかり」
ということである。
昼は、ピンクっぽいいろでも大丈夫なのだが、
「夕方くらいからは、原色に近い形で光っているということになるのではないだろうか?」
といえるのだった。
これは、特に季節によっても変わってくる。
特に夏などは、夕方くらいまでが、ほぼ昼間といってもいいくらいで、
「夜のとばりが降りる」
という時間にならない限り、その原色というものが分からない場合が往々にしてあるということになるだろう。
それは、皆に言えることであるが、微妙な違いとして、
「夏に弱い人、強い人」
という個人差にも表れてくることであろう。
また、これが精神状態によっても変わってくる。
特に、
「精神疾患」
というものを持っている人であったり、その、
「予備軍」
と呼ばれる人であってもそうなのだろうが、
「躁状態と、うつ状態を持ち合わせている人は、特に感じることであろう」
と言われる。
もちろん、
「躁状態がない。うつ病だけしかない」
という人にも言えることで、
「躁鬱を定期的に繰り返している」
という、
「双極性障害」
と呼ばれる人にも言えることであろう。
子供の頃から、
「自分が何かの病気かも知れない」
と感じながらも、人には言えず、一人で、悶々と考えている人は、特に、この
「原色」
という考え方を、
「つながりがある」
ということを分かっているのかいないのか、考えさせられるということではないだろうか?
子供の頃というのは、
「大人になってから、なんでも分かってくる」
と思って、
「早く大人になりたい」
というのが、普通なのかも知れないが、大人になるということを、自分から拒否し、その理由として、
「病気だということが分かってしまうのが、自分で怖いからだ」
ということである。
これが、まわりが気づいて病院に、強引にでも連れていかれるということであれば、自分の中で、一縷の言い訳はできるのかも知れないが、まわりが何もしてくれないということで、
「すべての責任を自分で負わなければいけないんだ」
ということになると、
「病院に行く」
ということが、憚られられ、
「もし、病気じゃなかったら」
ということが、本当に、
「よかった」
ということで、納得できることなのか?
と考えさせられるのであった。
信号機というのは、基本的に3つの色がある。
「青、黄、赤」
であるが、
「それぞれの色が、どういう関係なのか?」
ということを考えたことがあるだろうか?
色というものの三原色というものがあり、それは、
「この三色を組み合わせることによって、人間が認識できるすべての色が票券可能だ」
と言われているようだ。
これを円盤のようなものにして、高速回転で回すと、色が混ざり合って、白い色になるという。その原理を使って、
「高速による、透明性」
ということで、
「透明人間」
というものを作ると考えた人もいたという。
「保護色のように、他の色にあたかも見えるかのような、カメレオンのような力が、保身ということで、備わっている」
と言ってもいいかも知れない。
また、保身として、
「石ころ」
というものと、同じ効果を示すものもある。
石ころというのは、河原などにたくさん転がっているが、
「そこに存在していても、見えているのに、その存在を意識するということはない」
というもので、相手のその存在を感じさせないという、これも、
「保身のための能力」
と言ってもいいだろう。
石ころは、その存在を知られようが知られまいが、人間や他の動物から、
「何かをされる」
ということはない。
実際に、動物の中には、気配を消して、その存在を分からなくすることで、
「外敵から身を守る」
ということが、往々にしてある。
というものだ。
砂の中にもぐって、姿を隠すものや、木の枝に化けるような形で、点滴に錯覚を起こさせることで、逃げるもの。
それぞれである。
ただ、これが人間であればどうであろう。
「動物は、逃げるために、保護色になったり、石ころのように存在を隠したりする」
ということであるが、人間は、戦争の時など、逃げたりすると、
「敵前逃亡」
とみなされて、
「銃殺刑」
だというではないか。
もちろん、兵隊さんなどは、
「国民を守る」
という使命から、
「逃げることを許されない」
というのは、
「一人が逃げてしまうということを許してしまうと、前例を作ってしまうということになる」
ということと、
「統制がとれなくなる」
ということで、
「士気が低下する」
ということになり。
「軍隊としての役割と、組織としての統制がとらない」
ということになり、それが、人間社会において、
「逃亡は許されない」
ということになるのではないだろうか?
考えてみれば、
「人間には、穂なの動物のような、保護色などと言った、身を守る本能のようなものが備わっているわけではない。あるとすれば、それは、
「他の動物にはない、高等動物としての、頭脳なのではないだろうか?」
しかし、人間は、
「自らを守るために、戦争をするわけではない。もちろん、侵略を受けて、防衛のための戦争であったり、安全保障の観点から、自分たちの生命?と思っている部分までを手に入れておかないと、いずれ、危険が降りかかってくる」
ということで、戦争を仕掛けることだってあるだろう。
戦国時代のような、
「群雄割拠」
の時代などは、いくら
「相手国を侵略する」
といっても、
「自衛のため」
ということだってあるだろう。
何氏を、まわりを敵国に囲まれていれば、当然、同盟を組んだり、それぞれの国の事情から、相手国を挟み撃ちにするというようなことだってあるに違いない。
よく、
「人間だけが、自分の損得のためだけに、人を殺す」
と言われるが、それは一部のことであり、実際には、侵略に見えても、
「自営のため」
と言ってもいいのかも知れない。
それを考えると、逃げることも攻めることも、相手あってのことであり、
「すべてを卑怯だというのは、筋違いだ」
ということではないだおうあ。
イソップ寓話の中にある、
「卑怯なコウモリ」
という話があり。
「鳥と獣が戦をしていて、撮りに向かっては、自分は鳥だといい。獣に向かっては。自分は獣だといって、逃げ回っている」
というコウモリの話であるが、
「結局、鳥と獣の戦争が終わると、コウモリは、卑怯者だと言われ、表に出てくることが許されず、夜の誰もいない時にだけ、表に出てくることができ。それ以外は、暗く陰湿な洞窟の中で、暮らしている」
ということになるというのだ。
これだけを聞くと、