三角形の関係
「分かってしまえば、容易に思いつくシナリオのはずなのに、実際に、分かろうとしないことにより、目の前に蓋をする」
という、おかしな発想が生まれてくるのであった。
要するに、
「どうすることもできないのであれば、変に口に出して、流れに抗うようなことをしない方がいい」
ということであった。
他力本願として、
「誰か偉い経済学者が、その対策を考えてくれるのだとすれば、今の流れを下手に変えてしまうと、それがうまくいかなくなる」
ということになれば、本末転倒だということであろう。
しかも、それを自分たち政府が行い、それを国民が知ることとなると、自分たちの政治生命を、自分たちで壊したことになる、
世間は、そんな政治観に投票などしてくれないだろう。
「私は、○○をお約束します」
などといっても、説得力などあるわけはない。
「正直者がバカを見る」
ということの典型的な例であろうか。
「今の世の中、うまくわたっていかなければ。簡単に足元をすくわれる」
というわけである。
その考えが、政治家に限らず、それぞれの企業のトップが考えていることだろう。
しかも、
「えらい学者の先生」
というものも、同じように、
「どうせ誰かが?」
と思っているに違いない。
誰が、
「火中の栗を拾う」
などということをするというのか。
「政治家が、他人事なら、学者や企業のトップだって他人事だ」
ということで、結局誰も、自体に立ち向かおうとしない。
その煽りを食らうのは、国民一人一人で、政府や学者、会社の経営陣に、
「そんな考えがあったかもしれない」
などということは、誰が分かるというのか。
「知らぬが仏」
ということで、片付けられるものだろうか?
そんな政治家にも、参謀というのがいた。
その参謀は、結構頭が切れたので、かなりその政治家から期待もされていて、何が一番すごいのかというと、
「彼には、人心掌握術がある」
というところであった。
「だったら、自分が、政治家として表に出ればいいのではないか?」
と言われるのだが、実際には、そういうことではないのだった。
というのは、
「政治家として表に出ようとすると、どうしてもだめなところがある」
ということで、その一番は、
「カリスマ性において、致命的に薄い部分がある」
ということであった。
「人心掌握術というものがあっても、人を引っ張って行ったり、輪の中心にいるということに長けているわけではない」
ということであった。
それに、彼は頭の回転の速さからなのか、自分を掌握することは誰よりも得意だったようだ。
だから、最初から、
「自分は政治家には向かない」
ということと、
「輪の中心になることはできない」
と分かっていることで、
「だったら、参謀がいいのではないか?」
と考えたのが、中学生くらいの頃であり、それ以降は、参謀として将来を担うということを考えたことで、その自分というものが、どれほど将来的に成功するのだろうかを考えたのだろう。
実際に、
「まわりに、政治家か、参謀のどちらに向いているのか?」
と考えると、
「政治家だ」
と答えが出る人の方が多い。
ほとんどの人は、
「どっちもできない」
という当たり前の答えしか導き出さないが、それでも、彼のまわりには、
「政治家であればなれる」
という人が少し多くなってきているということが分かっているようだった。
そういう意味では、
「俺だから、そういう政治家向きの人が近くに寄ってくるんだろうな」
と感じた。
しかし、逆に、
「参謀向き」
という人はまずいない。
「少ないだろうな」
と思うような人はそれなりにいるのだろうが、実際に、参謀に向いているという人は、ハッキリ言っていなかった。
だから、
「果たして自分も参謀に向いているのだろうか?」
と考えてしまう。
っどちらかというと、政治家ではないから、参謀だ」
と勝手に思っただけなのかも知れないが、
「自分では、そうは思いたくない」
という思いから、
「世の中というものを、どの方向から、そして、どの切り口で見るか?」
ということで、自分の見方も変わってくるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「世の中にいる自分を見るのではなく、自分がいる世の中を見る」
という考え方に目線を変えてみると、今度は自分のことが分かってくるのかも知れない。
と感じるようになるのであった。
だから、
「参謀になりたい」
と思うようになって。
「参謀と呼ばれる人」
の本を結構読んだりした。
「黒田官兵衛、竹中半兵衛の良兵衛」
しかり、
「直江兼続や、片倉小十郎景綱」
さらには、
「本田正信、真田昌幸」
などという、
「それぞれの立場での軍師、参謀と呼ばれる人たち」
であったり、
「大日本帝国における陸軍」
というところでの、
「参謀本部」
というおのの立ち位置というものも見たりしたものだった。
読めば読むほど、
「俺にふさわしい気がするな」
と感じたのだ。
その人は、別にこの街の出身でもなんでもなかった。
しかし、
「俺は誰の参謀になればいいのか?」
と考えた時、なぜかこの街出身の、
「バブル崩壊」
というものを感じていたこの政治家の参謀になろうと思ったのだ。
それは、この政治家が、自分にだけ、
「バブル崩壊」
というもののメカニズムを教えてくれたからであった。
正直、他の人であれば、
「そんな話をされても」
ということで、嫌な気分になるのは当たり前のことだっただろう。
しかし、彼は、政治家のその話を真面目に聞いた。
もっとも、真面目に聞いたからといって、どうなるものでもないということであろうが、少なくとも、
「話を聞いて、そこまで嫌な気分にならないというのは、俺くらいのものだろう」
と感じた。
だから、
「この政治家は、他の人に話せないようなことを、俺だけに話してくれる。そういう意味では、分かり切っていることが多いのだろう」
という思いがあったのだ。
「政治家というのは、
「俺だから、やれているんだ」
というくらいのうぬぼれがあってもいいと思っている。
しかし、
「それは、なるべくまわりには隠しておくもので、それができないのであれば、そもそも、政治家には向かない」
と思っていた。
だから彼が、
「俺は政治家じゃないんだ」
と感じたのは、この辺りにその理由があったのではないだろうか?
本人としても、そこまで自分を分かっていると思っているわけではないので、参謀になるということを考えた時も、まわりの誰にも言わなかったのである。
だから、参謀になった時も、その人が、どこで働いているのかということは、本当にごくわずかな一部の人間しか知らなかった。
自分から、漏らすようなことはしないし、漏れたとしても、
「だからといって、何なんだ?」
ということで、下手に問題を大きくしようなどという発想があるわけはなかった。
ただ、
「俺は参謀なんだよな」
という思いは強く、
「政治家ではない」
という思いとがバランスよく考えられているように思えてならなかった。