捏造が、偽造となり、真実になった事件
「動機としては強いが力はない」
「力はあるが、動機の面で、あまりにもリスクが高すぎる」
などということから考えると、やはり、最後に得をした人物として、
「羽柴秀吉説」
が大きいのではないだろうか。
力関係を持ってしても、あり得ることであろう。
また、昔の西洋の話である、
「イソップ寓話」
というものの中に、
「卑怯なコウモリ」
という話がある。
この話は、鳥と獣が戦をしているところに、通りかかった一匹のコウモリの話である。このコウモリは、
「鳥に向かっては、自分が羽があることで、鳥だといい、獣に向かっては、自分のことを獣だといって、逃げ回っていた」
という。
いずれは戦も終わるもの。実際に戦争が終わると、鳥と獣は、打ち解けて話をし始めるのだが、コウモリの話が出ると、その所業が、どんどんひどいことに見えて、
「鳥と獣の共通の敵」
ということになるのだった。
結局、鳥と獣の両方から相手にされないようになり、結局、鳥からも獣からも遠ざけられてしまい、そのまま、
「暗くて、陰湿な、湿気の多いその場所にコウモリは生息するようになった」
そう、その場所は、湿気を十分に含んだ、鍾乳洞のような洞窟の中に、ひそかに住んでいて、姿を現さないように、実際の行動は、
「夜行性」
ということになり、真っ黒なボディは、その保護色を呈していた。
結局、このお話は何が言いたいのだろうか?
タイトルが、そもそも、
「卑怯なコウモリ」
なのだから、どれほど卑怯なものなのかということは、
「本人以外の皆が熟知している」
ということだろう。
本人以外というのは、本人が、自分のことを分かっていないわけではなく、実際にはよくしっているのだろう。
しかし、頭の回転は速く、自分の立ち位置も分かっているのだが、自分のことを考えた時、瞬時にして、まったく自分の中の自信というものを、ことごとく潰していくのであった。
だからこそ、
「そこまでする必要がどこにある?」
というほどのことであり、
「臆病がゆえに、そうさせるのではないだろうか?」
ということになるのである。
自分が、いかに自己否定や、発想を悪い方にもっていきがちのは、
「僕が臆病だからということなのだろうか?」
と考えてしまう。
臆病な性格は、他で腐っていないものまで、腐らせてしまうという効果がある。
というもので、一種の、
「腐ったミカン」
の理論といってもいいだろう。
「腐ったミカンが、それ以外は、まったく問題のないミカンの入ったミカン箱に入れられているすると、まわりのミカンは、腐ったミカンの影響をもろに受けて、他の正常なミカンまですべて、腐ってしまう」
つまりは、それだけ、
「腐っている」
という部分が強いのだ。
腐ってしまったその部分を取り除いただけでは、他が腐りかかっているのを防ぐことができないだろう。
だから、
「腐ったミカンが、その箱に入らないように、腐ったミカンとして、本人にも自覚させ、他の正常な人たちを惑わることをしてはいけない」
ということであった。
これは、本人たちだけでできることではない。微妙な距離にいる、たとえば、
「学校の先生」
などの役目ということで考えてしまうのだった。
だから、昭和の頃の学校教育の中で、
「腐ったミカン」
という発想があり、賛否両論はあるのだろうが、
「学園ドラマ」
などでは、腐ったミカンという考え方自体を毛嫌いするような展開の場合が多いであろう。
実際に学園ドラマというと、昭和の時代のことであり、いわゆる、
「受験戦争」
というものが、小学生にまで及んだ時代だった・
といってもいいかも知れない。
そもそも、当時の日本は、戦後から脱却し、高度成長時代を迎えたが、戦後すぐくらいの日本人と他の先進国との間で、知能指数のようなものが、かなりかけ離れているということがあるのだが、その時の政府は、
「せめて、海外の学生と同じくらいの学力をつける必要がある」
ということで、
「それは、小学生くらいの頃から、潜在的に意識を持っていないといけない」
ということになるだろう。
それはあくまでも、
「中学受験」
というものに、ダイレクトな反応があるというわけではないが、高度成長時代となり、「日本人の学力の向上なくして、高度成長を支えていくことはできない」
ということで、政府によって、学力の向上のカリキュラムなどが組まれるようになったのだ。
しかし、そこで問題になってくるのは、
「教育問題」
と一口にいわれはしたが、この問題は、奥が深いといってもいいだろう。
しかし、理屈は単純なもので、
「受験戦争の弊害」
といってもいいだろう。
受験する方は、学校の先生と、自分のレベルを冷静に判断し、先生と話をしながら、志望校を決めていくことになる。
「A学校であれば、普通に合格を保証できるかも知れないが、B学校では、五分五分くらいかも知れない」
ということで、B学校は、合格ライン微妙なところである。
そこで、本人が果敢にアタックして、合格をもぎ取ったとすれば、まわりは、驚きと歓喜のリアクションを示すだろう。
本人が、ひょっとすると、自信過剰になるかも知れない。
だが、そうなると、その学校に貼れて入学できたことに変わりなく、ここまでであれば、大いに自慢をしても、いいレベルだといってもいい。
それでも、そうはうまくはいかない。
というのは、
「受験というのは、合格すれば終わりだが、実際にそこから、学校生活が始まるわけで、今までは、孤独な受験戦争が、今度は、まわりがいて、そのまわりが皆敵である」
ということに耐えられるだろうか?
「そんなの覚悟の上だ」
というかも知れないが、果たして、本人がどこまで想像できていたといってもいいだろう。
というのも、
「今まで小学校の頃は、クラスでトップクラスの成績だったので、かなり自信過剰だったことであろう」
というもので、これが晴れて受験に成功し、難関を乗り越えて、やっと合格したところなのだが、ふと気が付くと、授業の難しさについていくのがやっとだった。
成績も、クラスで下から数えた方が早いということになるのだが、
「どうして、こんなことになったのか?」
といって、冷静に考えれば当たり前のことである。
要するに、
「まわりのレベルが上がったのだ」
といってもいいが、正確には、
「レベルの高いところに、無理をして、飛び込んだのは、自分ではないか」
ということである。
レベルの高さについていけないのであった。
要するに、
「優等生だと思っていても、優等生のグループに入ってしまうと、埋もれてしまう」
ということだ。
つまりは、
「今まで持っていた自信というものを、一気に破壊させるだけのことである」
ということだ。
そして、もう一つ言えることとしては、前述の、
「腐ったミカン」
の理論とは、まったく逆だった。
「腐ったミカン」
は、その自らの力で、
「まわりのものを自分と同じように、腐らせてしまう」
ということである。
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次