捏造が、偽造となり、真実になった事件
と言われる、
「都市封鎖」
というものは、日本ではありえない。
海外のロックダウンでは、外出禁止令などということを、出すことができる、
それは、昔の時代であれば、日本でも、
「有事になれば、国民の権利の一部を国家が制限し、もし守らなければ、罰則を与える」
というものであった。
その有事というものは、
「戦争」
はもちろん、
「災害」
などもその一つになるもので、それは、今回の
「世界的な伝染病」
というのも、当たり前に含まれるということであろう。
だが、日本では、
「戦争というものは、ないかも知れないが、災害はある」
といえるだろう。
むしろ、日本というのは、地震大国と言われるように、災害もそれなりに多い。
それを思うと、
「日本という国は、本当に、お花畑だ」
といえるだろう。
確かに、平時であれば、基本的人権を守る」
というのは当たり前のことであるが、これが災害となると、
「一部のルールを守らない連中のために、ちゃんと守っている人の命が危険に晒される」
ということになるのだ。
さすがに、
「戒厳令」
ほどの、強制というのは、まずいが、人の命を考えれば、少々の自由の拘束はあってもいいのではないだろうか。
だから、日本では、
「世界で行われている、ロックダウン」
というほどの制限はないが、緊急で、
「要請する」
という形で発令される、
「緊急事態宣言」
というのがあるのだ。
それでも、強制力はない。罰金もなければ、懲役刑もない。だから、
「従わなくてもいい」
ということを考える人もいた。
もちろん、
「店を開けないと、明日にでも首をくくることになる」
という人もいるだろうから、それも仕方がないともいえるのだろう。
海外で、
「ロックダウン」
に従うのは、
「戒厳令が発令されても、その分、国家が休業補償をしてくれる」
ということで、従うのだった。
日本の場合は、
「強制はしないが、保障もしない」
ということで、中途半端なことになり、結局、従わない人が出てくるというわけだ。
だから、
「日本という国は、中途半端だ」
と言われるのである。
しかし、そんな
「従わない連中を、何とか従わせる人がいなければいけない」
ということで、ネットであったり、実際にやめさせるようにするのが、
「自粛警察」
と呼ばれるものなのだ。
賛否両論はあるが、それも、致し方のないことだといえるのではないだろうか?
「自粛警察」
というのは、当時の自分を虐めていた、
「いじめっ子」
に似ているような気がする。
当時の田丸は、自分がいじめられっ子だということを意識しながら、
「自分が悪いんだ」
と感じていた。
まわりの目が、
「皆そういっているんだ」
と思うと、
「自分以外が皆、敵なんだ」
と思うようになった。
その場合は、たいていの場合、
「自分が悪いか?」
あるいは、
「相手が悪いか?
ということの、二者択一でしかない。
そうなると、どうしても多数決で考えると、
「悪いのは、自分だ」
ということになる。
だから、いつも、まわりから虐められている自分を見ると、悪いのは自分だと思うのだが、何が悪いのかが分からないのが、実にいらだちの下でしかない。
逆にいえば、
「悪いところさえ分かれば、それが、いじめの原因ということになるのだろう」
と思っていた。
しかし、
「どうもそうではない」
ということが分かったのは、いじめっ子が、自分を虐めなくなってからのことだった。
虐める連中がいうのは、
「なんでお前を虐めていたのか、自分でも分からないんだよな」
というではないか。
こっちは、必死になって、
「苛めの原因が何なんだ?」
と探していたにも関わらず、蓋を挙げてみると、
「俺たちも分からない」
では、たまったものではない。
「俺は、他の奴が虐めているから、俺もそれに乗っかっただけなんだ」
という。
こいつの言い分を聞いていると、すべてを人のせいにして、
「俺は、別に虐めたかったから虐めたんじゃない」
ということで、
「苛めを正当化する」
というわけではなく、
「自分を正当化する」
ということであり、これでは、
「虐めたことを反省などしているわけはない」
もっといえば、
「虐められる方も悪いんだ」
と言いたいに違いない。
確かに、苛めというものが、
「理不尽なものだ」
というのは、虐められる側からしか言えることではない。
しかし、こうやって聞いてみると、
「虐める方にも、何ら大義名分もなく、それ以上に、正当化すらない」
ということは、
「虐められ損」
ということであろうか?
だとすれば、
「苛めに何かの根拠のようなものがないと、虐められている方も、理不尽でしかない」
それを思うと、苛めを、
「どの方向から見ればいいのか?」
と考えるのであった。
苛められないようにするには、
「なるべく相手を無視するしかない」
ということであった。
それよりも、一番怖かったのは、
「まわりの人間が助けてくれない」
ということであった。
あとから考えると、
「苛めを止めに入ったり、いじめっ子の肩を持ったりすると、今度は苛めの対象が、自分に向いてくる」
ということを考えてしまう。
それよりも何よりも、一番怖いのは、
「虐められていた人間が、助けてもらったにもかかわらず、今度は、その攻撃の手が、こっちに向いてきたのをいいことに、今度はいじめっ子の方に、その目が向いてきて、完全に、裏を返したかのように、こちらを敵視してくることであった」
昔の戦国時代など、相手の武将が、自分が助かりたいが一心で、不利になった見方を裏切り、相手に寝返るということは結構あるだろう。
しかし、そんな中で、まだ戦が続いていれば、裏切って、こっちについた武将を、わざと、
「先鋒にする」
ということを平気でやったりする。
もちろん、
「相手のことを知り尽くしている」
というのもその大きな理由だが、
「そもそも、裏切るくらいなのだから、どこまで信用してもいいのか?」
ということで、先鋒にすることで、
「どれだけ忠義があるか?」
ということと、
「どれだけ、簡単に裏切ることができるのか?」
ということを考えるとすれば、
「さすがに、群雄割拠の戦国時代」
それくらいの意識がないと、なにしろ、
「下剋上」
ということで、
「隙あらば」
戦国大名にとってかわろうとする輩が多いのだから、安心はできないというものだ。
戦国時代において、大名であっても、安心できない。
また、信長のようにい、天下人の一歩手前で、裏切られる場合もあるというものではないか?
しかも、
「本能寺の変」
というものは、かなりの曰くがあるということで、黒幕説もたくさんある。
もちろん、
「光秀単独説」
も有力なのだが、
「朝廷説」
「足利将軍説」
「羽柴秀吉説」
「長曾我部元親説」
「徳川家康説」
これだけたくさんの説があるのだ。
そもそも、あまりにもできすぎているところもあることから、これだけたくさんの名前が挙がったのだろう。
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次