捏造が、偽造となり、真実になった事件
これは、追い詰められた人間が、その最後の力を振り絞って、相手をやっつけるというような話とよく似ている。油断をしていると、首を掻かれてしまうということである。
だが、
「優等生の中に埋もれた優等生」
というのは、最初は、まわりに誰もいないところを、皆を突き放して独走態勢だったが、そのうちに、目の前に見えている一つの団体を意識すると、
「あの連中も追い越してやれ」
とばかりに、一気に先に進もうとすると、入り込んでしまうと最後、自分の意志だけでは抜けられなくなってしまった。
それどころか、自分のペースよりも、はるかに速いペースであることに気が付くと、
「ついていくのがやっと」
ということになった。
結局、群衆に紛れてしまって、その中で、どんなに殴られたり蹴られたりしても、中で何があったか分からない。
しかも、その群衆が通り過ぎた後に、ボロボロになった一人の人間が現れれば、同情を受けるというよりも、その情けなさに、
「ざまあみろ」
と思う人もいるだろう。
そもそも、その集団というのが、優等生の塊で、劣等生、いや、普通のレベルの生徒から見れば、ある意味、
「高嶺の花」
であり、
「自分たちにはあこがれではあるが、軽蔑でもある」
ということであった。
「やつらは、俺たちのことを蔑んでいるんだ」
ということで、軽蔑するのであったが、実際には少し違っている。
田丸のように、一度、優等生の集団の中に入れば分かるのだが、その集団にいると、
「吐き気や頭痛」
などという、ただでさえ耐えられないところに持ってきて、さらに、それが、自分でも、離れたいと思っても、まるで、
「おしくらまんじゅう」
のように、出ることもできないまま、倒れるまで、まわりに引っ張られるのであった。
だから、その間に、蹴られたり殴られたりしても、意識がないのかも知れない。
「痛い」
などという意識は、すべて、
「苦しい」
という思いに置き換わるのだ。
そして、
「もうついていくことができない」
と思うと、まわりの連中が、ひっぱっていこうとは、もうしなかった。
あとは、ボロ雑巾のように、捨てていくだけのことなのだ。
そして、ボロボロになって、道に捨てられるのが、一種の、
「優等生グループについていけずに、脱落した、いわゆる、落ちこぼれというものである」
ということになるのであった。
そんな落ちこぼれを、誰も助けようなどと思うはずもない。
これは嫉妬なのか、憧れなのか分からないが、しいていえば、
「憧れという名の嫉妬」
といっていいだろう。
ただ、憧れという言葉を、嫉妬というのは、普通に考えれば、あいまみれるということはないと思われる。
ということは、
「憧れ」
なのか、
「嫉妬」
なのか、どちらかが、偽物なのではないかと思うのだった。
この場合であれば、基本は嫉妬だと思うと、憧れというのはウソではないだろうか?
しかし、実際には、この憧れというのもウソではない、まわりの人だって、本当であれば、
「俺も、あの優等生グループに入れたらな」
と思っている人もいるだろう。
それはあこがれからというもので、特に、
「自分にできないことをしている」
という人に対しては、人間というのは、
「2種類の意識を持つのではないだろうか?」
一つは、普通に憧れを感じ、
「うらやましいな」
と思いながらも、優等生が、表彰されるようなことがあれば、まるで、自分のことのように、祝福している姿を見る。
その本音は分からないが、きっと、本当に祝福しているのだろう。
しかし、田丸はそんなことはできない。相手を祝福どころか、
「俺の目の前で表彰される人がいて、それを何で祝福される様を、この俺が見ていなければいけないんだ」
という思いに駆られてしまうと、
「これはたまったものではない」
と考えるのだ。
だから、そんな思いをしたくないということから、
「自分も勉強して、やつらに追い付くんだ」
ということで必死に勉強をするようになったのだ。
そして、それまでの、
「その他大勢」
といってもいい成績だった自分が、ちょっと勉強すると、すぐに、トップクラスになることができた。
ここで、
「俺って、やればできるじゃないか?」
と思い、この、
「やればできる」
というのが、一番の自信ということで、どんどん、前を見るようになったのだった。
そうなると、さらに成績はうなぎのぼりで、受験でも、かなりのところまで行けるのではないかというのが、担任の先生の評価だった。
ただ、間違えたのは、前述の、
「受験校選び」
だったのだ。
「無理をしてでも入ってしまえば、何とかなる」
ということまでは思っていなかった。
「入る前から、入った後のことを考えてどうするというのか?」
という思いがあった。
受験に合格しなければ、その先はないということで、
「自分は、受験に際して、集中していかなければいけない」
ということになるのだ。
そして、受験も突破し、入学してみると、まわりは、もうまったく違う連中の塊だった。
「和気あいあい」
などという雰囲気は、かけらもない。
皆、
「隙あらば」
と、自分だけが這い上がることしか考えていない。
だから集団で規則正しく進んでいるように見えることで、集団としての認識だが、実際には、
「烏合の衆」
といっても過言ではないだろう。
真逆
そんな中において、田丸は、自分が、いかにうまく立ち回るかということを考えて、
「卑怯なコウモリ」
の話であったり、
「優等生の中に埋もれてしまった、歪んだ精神状態」
というものを考えると、
「自分がどれだけ、卑屈な人間だったのか?」
ということを思い出した。
あれは、小学生の頃だっただろうか。今でもトラウマになっていることがあった。
というのは、小学生の頃に、ドラマなどであれば、
「よく聞く話」
であったが、
「ある日学校で、教育費を盗まれる」
というのがあった。
ちょうど体育の授業で、教室が空になる時間があったのだが、その時、誰かに物色されたらしい。
ただ、教室の防犯カメラがあるわけもなく、盗まれたとしても、その現場がとらえられているわけではない。
昔から、ドラマなどであるのは、
「狂言窃盗」
ということがあったようだ。
しょせん、
「子供の浅知恵」
というべきか、子供だけに、深く考えるということがないのである。
要するに、
「給食費がなくなった」
ということで、
「誰かに責任を擦り付ける」
という考えからであるが、
「それだけ、恨みに思っている人もいる」
ということであろう。
ただ、それだけのために、いくら、
「子供の浅知恵」
といっても、
「やっていいことと悪いこと」
の判断くらいはつくのではないかということである。
少なくとも、
「一人の犯罪者を作り上げる」
ということである。
それも、本当に何かをやったのであれば、それも、百歩譲って、
「しょうがない」
といえる部分もあるのかも知れないが、
「犯罪者をでっちあげる」
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次