捏造が、偽造となり、真実になった事件
ということを、真剣に考えて、実際に、秘密裡に行われるプロジェクトも存在しているのではないかと思われる。
しかし、これは、公にできることではない。
というのは、
「人間の生き死にに対しては、他の人間が関与してもいいのか?」
という問題は、
「安楽死」
ということにかかわってくるのだ。
事故や病気で、
「植物人間化」
してしまった人を、安楽死させることは、基本的には許されず。ほとんどの場合は、殺人罪ということになり、医者は、かかわりたくないことであろう。
ただ、医者としても、普段から、患者の死というものにかかわっているので、余計に、人が死ぬということの尊厳というものを考えると、
「敬意を表する」
ということで、
「楽にしてあげてもいいのではないか?」
ということであった。
そんなプロジェクトも、中にはあるのかも知れない。もちろん、公にはできないのだろうが、
「このことは、俺たちだからいえることではないか?」
といって、普段から死に直面している医者だからいえるのだろうが、逆に、
「医者というものは、人の命を助ける商売」
という、
「存在意義」
を考えると、
「医者が、そんなことをいうのは、おかしい」
とする、医者の集団もあることだろう。
しかし、一番の問題は、残される家族で、実際に、
「生きているのか、死んでいるのか分からない」
という状態の人を目の前にして、その生命維持のために、自分の私生活をめちゃくちゃにされることを考えると、それこそ、
「家族の尊厳」
などあるのだろうか?
ということになるのである。
「生命維持装置を使用するにも、莫大なお金がかかる」
それは分かっていることであり、
「それをじゃあ、誰が負担するというのか?」
ということになれば、それは、家族の負担ということになるであろう。
生命保険から、いくらかは出るかも知れないが、それだけで足りるわけもないだろう。
要するに、
「家族としては、いつ目が覚めるとも限らない人を、お金をかけて、自分の生活をめちゃくちゃにしながら、果たして、本人を生き続けさせる必要がある」
というのであろうか?
そもそも、植物人間になった人が、
「家族に迷惑をかけてまで、何もできないのに、生き続けていたい」
と思うだろうか?
確かに、生き続けるということは、本当に正しいことなのかどうか?
それは誰にも分からない。
そもそも、人間の生死は、
「どこを持ってその境目とするのか?」
法律的には、いろいろな判断を元に決めたことであろう。
しかし、一人の植物化してしまった人間を生かし続けるために、家族の犠牲というのは、どう考えても、無理がある。
下手をすれば、借金をしてまでも、生命維持装置を動かし、借金取りに追われる生活で、「植物化してしまった人よりも先に、命を絶つ」
などということになってしまうと、これこそ、
「本末転倒だ」
ということになるのではないだろうか?
「安楽死」
あるいは、
「尊厳死」
という問題は、大きな問題であり、
「命を天秤に架ける」
というようなことをしてはいけないのだろうが、少なくとも、
「家族がすべての面倒を引き受ける」
というのは、理不尽この上ないといってもいいだろう。
「結局、尊厳死を認めない」
というのは、他人事だと思っているからではないか?
などという考え方も出てくるわけで、本当はそんな単純なものではないと分かっているのだろうが、実際には、他にもいろいろ考えるところもあるだろう。
しかし、家族の問題一つをとってみても、
「尊厳死」
という問題は、永遠に続く、
「人間が人間の死をいかに考えるか?」
ということであり、下手をすれば、
「生殺与奪の権利」
というところまで言及することになるだろう。
それとは、逆に、
「不治の病に侵された人が、このままでは、余命とともに、死を迎える」
ということが分かっている人が、
「一縷の望みをかけて、未来の不治の病ではなくなる時に目が覚めるように、未来に対して、本人を冷凍保存する」
という考え方も、微妙な感じがあうるのだ。
これは、浦島太郎の心境に似ているのではないだろうか?
数百年後の誰も自分を知らない、そして、自分もまったく知らない相手だけがいる世の中に。一人だけ飛び出して、
「どうやって生きていけばいいのか?」
ということである。
ひょっとすると、
「あの時に、死んでおけばよかったかも知れない」
と思うのではないだろうか?
卑劣
その日は、結局、いつもの老人は現れなかった。今までに現れないこともあっただろうから、別に必要以上に気にすることはないのだろうが、その日は、何やら気持ち悪い感覚が、襲ってくるのであった。
その日は、やはり、気持ち悪い要素があったのだろうか。
「あの老人は来ないのではないか?」
という気持ちがあったのだ。
そもそも、体調が悪い日というのは、それだけではなく、子供の頃にあった、
「小学生の頃の、飛蚊症」
というものが絡んだ頭痛を思い起こさせるのであった。
そもそも、自分が飛蚊症の頭痛に襲われるようになったのは、
「当時、いじめられっ子だったからではないか?」
と感じるようになっていたのだ。
小学生の頃の自分は、今から思えば、
「虐められても仕方のない」
といえる少年だったのではないかと思うのだ。
いつも目立ちたがり屋なところがあり、友達が何も言わないのをおいいことに、いつも出しゃばったかのような言い方になることで、自分の知らないところで、いろいろいうやつもいたりした。
しかし、直接的にかかわった人は何も言わないので、田丸自体は分からない。
だから、田丸は、
「自分が悪いことをしている」
とは思っていない。
しかし、他の連中で、小学生でも、
「虐めっこ予備軍」
と呼ばれる連中からすれば、
「とにかく、俺たちが被害を被っているわけではないが、あんな非常識な奴は許せない」
ということで、いじめに走ることになるのだ。
確かに、苛めというのは、悪いものであるが、あの頃にまわりに掛けていた迷惑を考えると、
「虐めたくなる」
というのも無理もないことであった。
しかし、そんな苛めを受けるのも、よく考えれば、
「当事者でもないのに」
とも感じるのであった。
ただ、虐められることで、
「いかにまわりに対して、うまくやっていくか?」
という選択肢が少なくなっていくのであった。
これは、少し前にあった、
「自粛警察」
なるものを、発想が似ているといってもいいだろう。
自粛警察というのは、数年前に起こった、
「世界的なパンデミック」
というものを思い出させるもので、あれは、日本が、
「緊急事態宣言」
なるものを発令した時に、端を発するというものであった。
我が国日本では、
「日本国憲法」
にある、
「基本的人権の尊重」
ということと、
「戦争放棄」
という条文から、大日本帝国時代にあった、
「戒厳令」
というものが、あってはならないという国家になったのだ。
他の国のように、
「ロックダウン」
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次