捏造が、偽造となり、真実になった事件
といってもいいだろう。
さすがに40歳近くになると、
「毎日の生活に慣れてきたから」
ということなのか、それとも、
「何か、自分の生きがいのようなものを、自分なりに手に入れているからではないか?」
ということであるが、それを自分で分かっていないことから、どうしても、
「曖昧さ」
という感覚が抜けていないのかも知れない。
実際に生きがいというものがないと、本当に何が楽しいのかということを分かっていない場合には、ただ漠然とした時間というものしか、時間に対して感じることができなくなってしまっているのかも知れない。
生きがい」
というと、大げさに聞こえるかも知れないが、
「大げさに聞こえる」
ということの方が、問題なのではないかと感じるのだ。
「大げさに聞こえるということは、それだけ、今まで、そのことに気づいてこなかったのかということが、自分の中で、恥なのではないか?」
と考えさせられるからではないだろうか。
つまりは、
「言い訳というものを、無意識に考えている」
ということで、逆にいえば、
「考えてはいるが、そのことを無意識だと思いたいという、どこか不可思議な発想というものが、渦巻いている」
といえるのではないだろうか?
自分の中において、言い訳というものをいかに考えるかというと、
「言い訳というのは、基本的に悪くはない」
と思っている。
もちろん、
「言い訳にならない言い訳」
というものは、論外で、
「言い訳を、いかにも正当性のあるものにして相手を納得させれば、それはもはや、言い訳という言葉ではなく、根拠のある正当性というものに、変わるのではないか?」
と考えるようになった。
「言い訳ができるということは、それだけ、自分をしっかり見ているわけで、相手が、それを正当性として認めようとしない場合、きちんとこちらを論破してくれば、初めて、その人と同じ舞台で、戦うことができる」
ということである。
それができないのであれば、相手は、
「どこまで行っても言い訳」
ということでしかなく、
「言い訳というものは、どこまで行っても言い訳でしかない」
ということを分かっていないのであろう。
確かに、
「言い訳」
というのは、
「言葉の遊び」
というようなものなのかも知れないが、それだけ、世の中の言い訳は、
「勘違いされやすい」
というもので、どうしても、
「ネガティブな感情にしかならない」
ということではないだろうか?
言葉の遊びというものが、実際に、ネガティブな発想になりそうなところを、
「ギリギリのところで食い止める」
ということになるのかも知れない。
そんなことを考えると、
「世の中と、自分たち、個人の考え方というものの違いを、社会常識という言葉で片付ける人がいるが、それを、自分の常識の押し付けということで気づかない人が多かったりする」
という思いに至るのであった。
さて、そんな田丸は、今までと違って、最近少し、業務が変わった。庶務の仕事もさることながら、会社の業務拡大にともない、本社ビルでは手狭になってきたということで、総務が借り入れてきたオフィスに、引っ越す部署ができてきたことで、庶務課も、ちょくちょく、そっちの方にも顔をださなければいけなくなった。
もちろん、備品の管理も、持っていくのも、庶務課の仕事である。
何しろ、新しい事務所といっても、仕事をするだけでギリギリの範囲なので、
「備品を置いておく」
という場所もないところであった。
そういう意味で、
「事務所が移転になった部署の人間も、賛否両論がある」
ということであった。
新しい事務所に移った方の人の中には、
「ああ、よかった。他の部署の人間に気を遣わないでいい」
ということを考えている人も一定数いる。
雑居ビルなので、他の会社の人はいるが、基本、フロアが別なので、エレベーターで一緒になったりしなければ、一階ロビーまで、一緒だったとしても、意識をするほどのことはない。
だから、
「人を意識することがないようにさえすれば、ストレスもたまらない」
ということであった。
ただ、
「今までが他の部署の人と同じ空間で働いていた」
ということで、そのことを意識しないのであれば、今度は、その人たちと別れなければいけないということで、
「同じ会社のわずらわしさ」
ということが、ないのだとすれば、別れるということは、あまり気持ちのいいということではないだろう。
自分たちだけが、他のビルに移動しなければいけないのかということで、会社から、
「蔑まされた」
と感じるのも無理もないことだろう。
本来であれば、同じフロア内にいた人に、質問があれば、直接聞きに行けるのに、電話やメールでやり取りしないといけないのは、億劫である。
別の支店の人たちとは、今までもこれからも、電話であったり、メールのやり取りでいいのかも知れないが、同じ本部内というとそうもいかない。
そもそも、メールでのやり取りが始まった時、
「いったい、どういう仕掛けなんだ?」
と感じた。
というのも、昭和の頃であれば、聞きたいことを、同じフロアであれば、
「本当なら内線でもいい」
ということになるのだろうが、昔の人の考え方として、
「何をラクしようとしてるんだ。ちゃんと相手に面と向かってお願いするのが当たり前のことだろう」
と言われたものだ。
特に昭和時代の刑事ものなどと見ていると、
「警察は、身体を使って、足を使って、事件を解決していくものだ」
ということで、探偵小説などのように、
「推理に頼る」
ということが、あまり好ましく思われないということだろう。
どこかの会社でもそうである。例えば、
「年末商戦など、他の部署が手伝うのが当たり前」
ということで、
「机に座ってしているのは、仕事ではない。仕事というのは、絶えず身体を動かして、作業をこなすというのが、本当の仕事なんだ」
ということであった。
刑事が、
「靴をすり減らして仕事をすることで、すり減った靴が、まるで、勲章のように思えるというのが、当然のことだ」
と言われた時代だった。
「昔を昭和」
というのは、年号が変わる時に、あからさまな変化があった時、それが、
「時代を変える原因だった」
と言わんと知れたことなのかも知れない。
そういえば、
「昭和の時代から、平成を通り越して、あっという間に令和になった」
と思っている人も多いだろう。
特に昭和の頃を、
「古き良き時代」
といっている時点で、昭和という時代が、
「歴史上の時代」
と言われるようになり、昭和の頃、感じていた、
「過去にあった時代の分かれ目」
ということで感じていた、昭和の時代からさかのぼると、
「戦後の動乱期」
というものが、昔でいうところの、
「黒船来航」
からの、
「明治維新」
というものであり、
「昭和の古き良き時代」
というものが、明治であれば、
「憲法制定」
や
「議会政治」
と言われる、
「大日本帝国成立」
と言われる時代くらいに当たるのかも知れない。
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次