捏造が、偽造となり、真実になった事件
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年11月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。
不惑
その日の仕事を終えた田丸義之は、いつものように、会社を出ると、何もする気力もなく、まっすぐ家路についた。
それは、今に始まったことではなく。ここ最近のルーティンとして、決まったことであった。
「決まったこと」
という実に他人事のようだが、本人は、まさに、
「他人事だ」
と思っている。
別に毎日の暮らしを、主観的にしようなどと思っているわけではなく、
「今日も一日頑張ったな」
と思える毎日で満足だったのだ。
年齢的にも、そろそろ40歳になろうとしている。今もいうのかどうか分からないが、
「不惑の年齢」
ということで、
「惑わない」
ということなのかも知れないが。田丸という男の考えとしては、
「戸惑う」
というのは、
「人間の本能のようなものだ」
と考えているのであった。
だから、本能を自分の本性のようなものだと考えてしまうと、
「一律に、惑わない」
ということではなく、惑う人が統計的に多いからというだけのことで、
「不惑の年齢と言われているだけだ」
ということを考えるようになったのだ。
「惑う」
という言葉と、
「迷う」
という言葉で何が違うというのか?
ということを少し調べてみると、ネットにおいては、
「迷う」とは、いくつかある選択肢の中でどれを選ぶべきか決めかねるときに使うことが多い言葉で、一方、「惑う」とは、答えの候補が曖昧であるときに使われる言葉で、混乱している状態のことだ」
ということであった。
ということは、
「迷い」
ということよりも、
「惑う」
ということの方が、
「より一層の、幅広さがある」
ということになるのだろう。
実際に、何かを決定するためには、まず最初に、
「惑い」
というものがあり。その時点では、進む方向すら決まっていないということになるのであろう。
そして、その道が決まってから、決めた方向の中にあるいくつかの選択肢で選ぶことを余儀なくされることを、迷うというのだろう。
だから、
「迷いが生じた時点で、すでに、惑いは解消されているわけで、先には進んでいる」
ということになるのだろう。
「第一段階のステップ」
を超えるために、30代までは、結構な時間を費やしたりすることで、
「大事なことだ」
と考えさせられることになるというのだ。
ということは、
「迷うためには、惑うということを乗り越えていなければならない」
ということであり、若い人は、その惑いを意識したことはないのだ。
では、
「その惑いというものを、40代からはしなくなる」
というのはどういうことであろうか?
「40代になると、意識するようになり、しかもそれは、惑わないという意識であり、どちらにしても、惑っているということを意識するということはない」
ということになり、
「だったら、何をいちいち、40代になって、惑わないなどということを言われるようにになるということになるのだろうか?」
と考えさせられるのだ。
だったら、人生の中で、
「何かに惑う」
という意識はないのだろうか?
と考えさせられるが、実際にはそうではなく、
「惑い」
というものと、
「迷い」
というものを、自分の中で意識的に考えてしまっているということが、それこそ無意識に、
「余計なことを考えたくない」
という思いが、自分の中で考えさせられるということになるのだろう。
田丸は、やはり、
「惑う」
ということを何となくわかった気がしたが、
「理解する」
というところまで分かったわけではない。
あくまでも、
「漠然とした状態で」
ということを感じただけで、それこそ、
「惑う」
ということと、
「迷う」
ということの違いとして考えられるところが、共通しているといってもいいのではないだろうか?
田丸は、会社では、人と商談をしたり、話をすることの少ない部署にいた。庶務課の方にいたので、
「総務部の一部所」
ということで、本来であれば、外部との商談なども多いはずの総務の中で、
「あまり人とかかわることが得意ではない」
というレッテルを貼られたことで、30代になったくらいから、その配属先を、
「庶務課」
に決められた。
その中でも、半分窓際といってもいいところに所属していたので、田丸のような男は、ちょうどいいのではないだろうか。
ただ、正直。30代になってから、庶務課に配属になった時は、少し戸惑いがあった。
田丸という男は、20代の頃から、曖昧な道をずっと歩んできた。
大学時代には、一応法学部というところに所属しておきながら、一種の、
「地の利を生かす」
という意味で、
「せっかく法学部に進んだのだから、司法関係や、行政関係、公務員などという道もあるのに」
と言われたが、そちらの道を目指すというようなことをしたことはなかった。
何となく就職活動の中にいて、なんとなく、就職も決まり。会社で、なんとなく仕事をしてきたのだ。
だから、
「言われたことはこなせるが、自分から考えて動くというようなことはしない」
と周りからの評価だった。
つまりは、
「あいつは、無難なことしかしない」
ということであって、
「就職してからも、毎日が受動的であり、自分から何かをしようという気にならないことが、一番の問題だったのだ」
ということであったが、それは、会社の中だけのことであり、それ以外には、
「同じ年頃の人と、同じような好奇心」
というものは持っていた。
特に、性欲に関しては、他の同い年の人よりもあったかも知れない。
もっとも、
「自分が他の人よりもあった」
というよりも、
「他の人が、自分よりも、いや、世間一般よりもない」
と言った方がいいかも知れない。
そもそも、世間一般というものも、時代として、
「草食系男子」
という言葉があるように、よくいえば、
「性欲の塊」
というような、
「理性やモラルのない人間ではない」
ということであるが、悪くいえば、
「人間としての、欲がないということで、それこそ、曖昧な欲というものに対しての感情しか持ち合わせていない」
ということになり、
「果たしてどちらがいいのか、まったく分からない」
不惑
その日の仕事を終えた田丸義之は、いつものように、会社を出ると、何もする気力もなく、まっすぐ家路についた。
それは、今に始まったことではなく。ここ最近のルーティンとして、決まったことであった。
「決まったこと」
という実に他人事のようだが、本人は、まさに、
「他人事だ」
と思っている。
別に毎日の暮らしを、主観的にしようなどと思っているわけではなく、
「今日も一日頑張ったな」
と思える毎日で満足だったのだ。
年齢的にも、そろそろ40歳になろうとしている。今もいうのかどうか分からないが、
「不惑の年齢」
ということで、
「惑わない」
ということなのかも知れないが。田丸という男の考えとしては、
「戸惑う」
というのは、
「人間の本能のようなものだ」
と考えているのであった。
だから、本能を自分の本性のようなものだと考えてしまうと、
「一律に、惑わない」
ということではなく、惑う人が統計的に多いからというだけのことで、
「不惑の年齢と言われているだけだ」
ということを考えるようになったのだ。
「惑う」
という言葉と、
「迷う」
という言葉で何が違うというのか?
ということを少し調べてみると、ネットにおいては、
「迷う」とは、いくつかある選択肢の中でどれを選ぶべきか決めかねるときに使うことが多い言葉で、一方、「惑う」とは、答えの候補が曖昧であるときに使われる言葉で、混乱している状態のことだ」
ということであった。
ということは、
「迷い」
ということよりも、
「惑う」
ということの方が、
「より一層の、幅広さがある」
ということになるのだろう。
実際に、何かを決定するためには、まず最初に、
「惑い」
というものがあり。その時点では、進む方向すら決まっていないということになるのであろう。
そして、その道が決まってから、決めた方向の中にあるいくつかの選択肢で選ぶことを余儀なくされることを、迷うというのだろう。
だから、
「迷いが生じた時点で、すでに、惑いは解消されているわけで、先には進んでいる」
ということになるのだろう。
「第一段階のステップ」
を超えるために、30代までは、結構な時間を費やしたりすることで、
「大事なことだ」
と考えさせられることになるというのだ。
ということは、
「迷うためには、惑うということを乗り越えていなければならない」
ということであり、若い人は、その惑いを意識したことはないのだ。
では、
「その惑いというものを、40代からはしなくなる」
というのはどういうことであろうか?
「40代になると、意識するようになり、しかもそれは、惑わないという意識であり、どちらにしても、惑っているということを意識するということはない」
ということになり、
「だったら、何をいちいち、40代になって、惑わないなどということを言われるようにになるということになるのだろうか?」
と考えさせられるのだ。
だったら、人生の中で、
「何かに惑う」
という意識はないのだろうか?
と考えさせられるが、実際にはそうではなく、
「惑い」
というものと、
「迷い」
というものを、自分の中で意識的に考えてしまっているということが、それこそ無意識に、
「余計なことを考えたくない」
という思いが、自分の中で考えさせられるということになるのだろう。
田丸は、やはり、
「惑う」
ということを何となくわかった気がしたが、
「理解する」
というところまで分かったわけではない。
あくまでも、
「漠然とした状態で」
ということを感じただけで、それこそ、
「惑う」
ということと、
「迷う」
ということの違いとして考えられるところが、共通しているといってもいいのではないだろうか?
田丸は、会社では、人と商談をしたり、話をすることの少ない部署にいた。庶務課の方にいたので、
「総務部の一部所」
ということで、本来であれば、外部との商談なども多いはずの総務の中で、
「あまり人とかかわることが得意ではない」
というレッテルを貼られたことで、30代になったくらいから、その配属先を、
「庶務課」
に決められた。
その中でも、半分窓際といってもいいところに所属していたので、田丸のような男は、ちょうどいいのではないだろうか。
ただ、正直。30代になってから、庶務課に配属になった時は、少し戸惑いがあった。
田丸という男は、20代の頃から、曖昧な道をずっと歩んできた。
大学時代には、一応法学部というところに所属しておきながら、一種の、
「地の利を生かす」
という意味で、
「せっかく法学部に進んだのだから、司法関係や、行政関係、公務員などという道もあるのに」
と言われたが、そちらの道を目指すというようなことをしたことはなかった。
何となく就職活動の中にいて、なんとなく、就職も決まり。会社で、なんとなく仕事をしてきたのだ。
だから、
「言われたことはこなせるが、自分から考えて動くというようなことはしない」
と周りからの評価だった。
つまりは、
「あいつは、無難なことしかしない」
ということであって、
「就職してからも、毎日が受動的であり、自分から何かをしようという気にならないことが、一番の問題だったのだ」
ということであったが、それは、会社の中だけのことであり、それ以外には、
「同じ年頃の人と、同じような好奇心」
というものは持っていた。
特に、性欲に関しては、他の同い年の人よりもあったかも知れない。
もっとも、
「自分が他の人よりもあった」
というよりも、
「他の人が、自分よりも、いや、世間一般よりもない」
と言った方がいいかも知れない。
そもそも、世間一般というものも、時代として、
「草食系男子」
という言葉があるように、よくいえば、
「性欲の塊」
というような、
「理性やモラルのない人間ではない」
ということであるが、悪くいえば、
「人間としての、欲がないということで、それこそ、曖昧な欲というものに対しての感情しか持ち合わせていない」
ということになり、
「果たしてどちらがいいのか、まったく分からない」
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次