捏造が、偽造となり、真実になった事件
しかし、実際には、そんなことはなく、
「そもそも、俺はあの人の何を知っているというのだ?」
ということであった。
殺意に結びつくほどの動機があるほど、その人のことを知っているわけではない。そもそも、名前すらしらないではないか。もちろん、その人の話を女将さんに聞いたとしても、女将さんが、べらべら、人の個人情報を離すわけがない。そんなことをすれば、
「女将失格だ」
ということになるであろう。
それを思うと、田丸は、
「自分に動機などあるわけはないので、安心だ」
と思ったのだが、ただ、このままでは、本当にただの、
「死体の第一発見者」
というだけで済まされるかどうか分からなかった。
そこで思い出したのは、先ほどの、見えなかったが、影のようなものであった。
正直、なんとなく雰囲気的に感じたものがあったが、それを警察に正直に答えていいものだろうか?
ということであった。
田丸は、
「正直に答えるしかない」
と思った。
そうでないと、結局自分が犯人にされてしまうということが分かり切っているということだからだ。
何といっても、その男が通り過ぎていったのは間違いない。
ただ、一つ気になるのは、
「あの男の死亡推定時刻だった。
実際の推定時刻から、相当な時間が経っていれば、ここから誰かが立ち去ったとしても、それは、犯人ではなく、
「自分よりも前に発見していて、どうしようか迷っているところに、自分が来たことで、とっさに逃げてしまったというのも、あり得ることだ」
ただ、いくら気が動転していたとしても、その場から逃げてしまうというのは、致命的なことではないだろうか?
しかし、その人物のことを正直に言わないと、
「こっちが余計な疑いをかけられる」
ということである。
それを無理に、どうしようもないかのように考えると、
「やはり、警察には正直にいうしかない」
ということになるのだ。
正直に警察にいおうとすると、今度は曖昧にしか見ていなかったので、それをどう説明しようかということまで考えてしまうと、頭の中が、堂々巡りをくりかえすようになったのだ。
そのせいもあってか、結局、何も言えなくなり、それが、結局、警察の睨みによって、
「言わなければいけなくなった」
ということになったのだ。
そうなると、一度、
「隠蔽しよう」
と思ってしまったといううしろめたさから、
「話さなければいけない」
という義務感に襲われ、それが、
「強迫観念」
となって襲い掛かってくるのであった。
しかも、その強迫観念が、自分自身を、すべてにおいて、
「自己否定」
というのを誘発することになるのだ。
いったん、自己否定をしてしまうと、
「どうにもならないな」
と感じるようになった。
というのも、
「元々、自分に、自信というものが備わっていたわけではないが、何かのきっかけで、自分に自信をつけることがあれば、その時は、うぬぼれが激しいと思うくらいに、過激に自惚れてしまうものだった」
ということであった。
だから普段は、
「謙虚にしておかなければいけない」
という思いと、それだけでなく、
「なるべく普段は、誰とも波風を立てないようにしておこう」
と考えるようになったのだ。
だから、最初から、
「捏造」
などという大それたことを考えていたわけではない。
そもそも、捏造という言葉に深い印象もなければ、
「そんな言葉とは、無縁だ」
とも思っていた。
「捏造というよりも、偽造と言った方がいいか?」
とも思ったが、どうも少し違うようだ。
ただ、今言っておかなければ、記憶というのは、どんどん曖昧になってしまって、少しだけでも思い出せるものも、思い出せなくなる。そうなると、本当に、
「すべてにおいての、捏造となってしまうのだ」
と思ったのだ。
大団円
田丸は、案の定、警察に詰め寄られて、
「捏造」
してしまった。
あたかも、
「その男が怪しい」
という感じで証言したことで、警察は犯人に、その男が絡んでいるとみて、捜査をするようだった。
しかし、あとから聞いた話では、死亡推定時刻から、自分が発見するまでに、数時間が経っており、犯人に関係があるならば、
「なぜ逃げなかったのか?」
ということが問題になるのだった。
「犯人心理であれば、普通ならできるだけ遠くに逃げたい」
ということを思うのが当たり前だというものだ。
しかし、その男は逃げようとはしなかった。
逃げ出すわけではなく、どちらかというと、
「第一発見者が誰か?」
ということを探っていたかのようにも思える。
これは、田丸が、
「臆病な性格だ」
ということから、自分で感じることだった。
臆病な性格だからこそ、余計に、いろいろ考えてその中で、一つの結論を得るのだが、意外とそれが的を得ていたりするのだ。
しかし、それも、臆病なだけに、的を得ているということを自分で信じられないという心境になるのであった。
それを思うと、
「俺は一体、何をしているのだろうか?」
ということを考えてしまう。
一つは、
「臆病なことで、神経が一点に集まってしまって、周りは見えないが、一点だけを見つめるその時が、的を得ているということではないだろうか?」
ということは、
「臆病なるがゆえに、真剣に状況を見ていて、その真剣さというのは、大人の対応ができる冷静さと同じ力を持っているとすれば、納得できることではないかと思うのだ」
確かに、臆病だと、見える視点がどうしても狭くなってしまう。
しかし、それが悪いことだといえるのだろうか>
決して言えないのではないかと思うのだ。
自分にとって、何が大切なのかということを考えると、
「見えているものを、いかに判断できるか」
ということであり、それが、的を得ていれば、
「それに越したことはない」
といえるであろう。
そういえば、今まで生きてきた中で、時々、
「時系列が意識的に、前後している時があるような気がするな」
と感じることがある。
「小学生の時の記憶よりも、高校生の時の記憶の方が、ずっと昔に感じられたことではないか?」
と感じられることが往々にしてあるというものであった。
それを思えば、
「中学時代や、高校時代というのは、受験受験で、あっという間だったが、本当であれば、思春期ど真ん中のはずなのに」
と思うと、
「これほど、もったいない時期があろうか?」
と感じるのであった。
逆にいえば、
「それだけ多感で思春期という一種の力を持った時期だったからこそ、受験勉強もできたのではないか?」
と感じるのだった。
「人間。いい方に考えれば、考えられないこともない」
といえるのではないだろうか?
今回の捏造は、ある意味、
「かなりでたらめな内容だった」
と言えるだろう。
それも当たり前のことで、
「もし、その恰好に該当する人がいれば、その人がいわれのない犯人いしたてあげられるからだ」
ということである。
もし、その人が、数年の刑期を課せられ、それを終えてから、
「自分を密告したやつに恨みがある」
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次