捏造が、偽造となり、真実になった事件
それを思うと、
「頭痛だけが、問題というのではない」
ということが分かるというものであった。
今回は、珍しく、後者だった。
前者には、発生のパターンがあるわけではないが、後者であれば、
「雨が降っていない湿気のない状態であるにも関わらず、湿気が感じられ、意味もなく、汗がにじんでくる」
ということになった時などに、襲ってくるものだったりするのだ。
それを思うと、
「頭痛というものに、なぜ吐き気が付きまとうのかというと、汚物のような臭いを、どこかの瞬間で感じるということになるからであろう」
ということであった。
しかし、一度、汚物の臭いを感じると、最初は
「頭痛や吐き気がなくなれば、自然と感じなくなるだろう」
と思っていたが、ちょっと甘いようだった。
臭いのひどさが、どのように、襲ってくるのかということは、そのものの臭いだけではなく、空気環境や、自分というものに対してだけだとは言えないのではないだろうか?
「雨が降り出すと、それまで、全然雨が降っていない時というのは、石のような、気持ち悪い臭いがしてくる」
と感じるのも、無理もないことかも知れない。
飛蚊症というのは
「いかに目の集中力というものを阻害させるか?」
ということになるのであろう。
そんな田丸だったが、今回は、頭痛が先に起こったことで、最初は、
「飲みすぎたかな」
と感じたのだった。
しかし、飲みすぎという感覚ではなく、頭の重たさは、あまり酔いが回った時と変わりなかったが、
「気持ち悪さを伴う吐き気」
というわけではなかったのだ。
酔いつぶれた時の気持ち悪さは、
「吐けば楽になる」
と言われるが、頭痛を伴う、
「酔いからくるものではない場合」
というのは、吐いて楽になるわけではなく、吐かない方がいいくらいだということもあるくらいだった。
それを、ハッキリとした形、つまりは、信憑性のある形にできないというのは、どういうことになるというのであろうか?
影が壁に映った時の揺らめきが、一瞬、大きくなったかと思うと、その場所の明かりが消えたのか。急に暗くなったのだった。
どうすればいいのかということを考えていると、その向こうに見えるものが、何なのかと思うと、
「見たくない」
と思っているはずなのに、そこにあるのが、まるで、幽霊のように、うごめいていることで、見ない方が却って気持ち悪いと感じるのだった。
実際に行ってみると、
「何か黒いものが蠢いている」
と感じた。
しかし、その蠢きというのは、光の関係での錯覚だと思うと、その物体が、動くものではないと思ったのだ。
さすがに、うねうねと蠢いているよりは、微動だにしない方が、気持ち悪くないというのは、歴然とした事実で、目の前に見えている光が蠢いていることで、気持ち悪く感じたのだろう。
それを感じると、
「俺って、臆病だったんだな」
と感じたのだ。
子供の頃というと、とにかく、臆病だった。
「いじめられっ子だった」
というのは、
「人の気も知らずに、言わなくてもいい一言を言ってしまうことが、一番の原因だった」
ということであった。
それはそうであろう。
相手に気を遣うこともなく、ズケズケと言われれば、悪気はないと分かっていても、だからと言って、許せるわけではない。
それを考えると、いじめられっ子としてのもう一つの理由があると分かっていても、それがどういうことなのかということは気づかないだろう。
「長所と短所は紙一重」
というが、
「近いと思っていることでも、近づいてみると、実はすぐそばだった」
というような、
「灯台下暗し的」
ともいえることもあるのではないだろうか。
そんな状態で、
「冷たくその場所に佇んでいる」
というものが何であるか、すぐに、分かった気がしたのだ。
しかし、さすがにすぐに近づく気がしなかった。
動かないといっても、
「本当に死んでいるのか?」
ということが分かることではない。
「死んでいるのであれば、警察、生きているのであれば、救急車」
ということであるが、そもそも、そこに蠢いているのが、
「本当に人間なのか?」
ということが、まずは、最初の問題である。
「警察に通報したら、動物だった」
ということであれば、別の意味での問題にはなるのだが、警察とすれば、
「うちの管轄ではない」
ということになるであろう。
確かに、警察ではなく、基本的に動物であれば、保健所の管轄であろう。
しかし、
「動物であろうが、人間であろうが、死体であれば、生きているものとは区別されて、管轄も違う」
ということである。
しかし、動物の遺体というのは、
「廃棄物として処理される」
ということになる。
つまりは、
「ゴミ扱い」
ということになるのだ。
何といっても、ゴミ扱いにするのは、どうなのだろう?
ということであるが、もちろん、飼い主が、よほどいい人で、お金に余裕もあれば、ちゃんと荼毘にふして、動物の、
「霊園」
のようなところで、
「永遠の眠りにつかせてあげる」
ということになるべきなのであろうが、実際には、そんなこともない。
飼う時には、
「癒しを求めて」
ということで飼い始めたのだろうが、癒しの元になっている、たとえば、
「孤独の原因が取り除かれ、誰か、パートナーガできて、しかも、その人が動物嫌いであった」
とすれば、
「その運命は、過酷なものになるに違いない」
ということであろう。
「隠蔽」
と、
「捏造」
というものは、
「どこが違うのだろう?」
ということであるが、明らかに違っているのは、
「隠蔽」
というのが、事実を隠すということであり、
「捏造」
というのは、事実ではないものを、あたかも事実であるように、ごまかすことである。
こちらは、一種の、
「減算法と加算法」
という考え方に似ているのかも知れない。
隠蔽は、完全に存在している事実を、何とか隠そうとするものとしての、
「減算法」
であり、
捏造というのは、よくあるのが、
「文化遺産」
などの歴史上の発見を、由緒あるものにしたいとして、いろいろ研究炉分などで、
「由緒ある人の発表として、あたかも真実のように言わしめることである」
というのが、捏造で、
「事実ではない」
ということを、
「ゼロからの出発」
とすれば、あくまでも、加算法でしかないということであった。
ただ、本当は、
「事実ではない」
という時点で、
「ゼロからの出発」
ということではなく、最初から、
「マイナスからの出発だ」
と言ってもいいだろう。
「加算法と減算法」
という考え方は、
「囲碁と将棋」
という考え方に似ているのかも知れない。
将棋というものの話で、
「一番隙のない布陣は、どんな布陣なのか?」
と聞かれたとすれば、その答えは、
「最初に並べたあの布陣なんですよ」
という。つまりは、
「一手指すごとにそこに隙が生まれる。隙が生まれないと、最終的に上手な人と同士であれば、勝ち負けを決することができなくなる」
ということになるのではないだろうか?
それが、将棋というものであり、囲碁のように、
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次