捏造が、偽造となり、真実になった事件
というものは、言われていることとしては、
「未来に起こることを、直観的に感じるということではないだろうか?」
これが夢であれば、
「予知夢」
というものであったりするというもので、
ちょっと違った見方をすれば、
「以前に、見たことがなかったはずなのに、以前にどこかで見た気がする」
ということでの、
「デジャブ現象」
というものも、その一つではないだろうか?
そのメカニズムは解明されていないというが、
「虫の知らせ」
にしても、
「予知夢」
にしても、
「それは、人間が潜在的に持っているものではないか?」
と考えるのは、おかしなことであろうか。
というのが、どういうことなのかというと、
「人間には、超能力というものが備わっている」
と提唱する人がいるが、その根拠として、
「人間は、自分の脳の、10%くらいしか使っていない」
と言われていることである。
それ以外の部分は、潜在的に持っていて、それが、自分の危機であったり、
「ここぞという時」
であったりする場合に、初めて、効力を発揮するといってもいいのではないだろうか?
「虫の知らせ」
や、
「予知夢」
というのも、その脳の残りの部分が介在しているとすれば、別に不思議なことでもないでもないといえるだろう。
つまりは、
「虫の知らせ」
「予知夢」
というものは、
「一種の超能力のようなもの」
といってもいいだろう。
そもそも、誰も、口では、
「超能力」
といっていて、その中にある、
「テレパシー」
「サイコキネシス」
などというものを、言葉として知ってはいるが、それを調べてみようとまでは思わないのだ。
なぜなら、
「潜在しているということは分かったとしても、結局それが役立つ時というのは、自分が危険に遭遇したり、特別な時でないといけないのだとすれば、なるべく感じたくもないことである」
といっていいだろう。
実際に、虫の知らせというのは、
「何かよくないことの前兆」
として感じるものだといわれているからであった。
そんな、
「虫の知らせ」
がこの日は、最初から、
「前兆の正体というのは、神社ではないか?」
という、一歩進んだ感覚があり、だから余計に、神社に対して、
「心得るもの」
というものがあったのではないだろうか?
それを思うと、
「超能力」
というのは、あくまでも、自分に潜在するものなのだから、その本人に、コントロールできないものではないと考えるのであった。
神社の明かりは、まるで蛍光灯のようだったのだ。
神社に立ち寄ると、そこにあるのは、
「いつもよりも大きく見える、狛犬だった」
狛犬というものは、
「左右で微妙に違うのではないか?」
と思っていたがどうなのだろうか?
確かにっ違うようにも見えるが、もし、それを、
「錯覚だ」
と言われれば、言い返す力もなく、
「その通りだ」
ということになるだろう。
錯覚というのは、言い返す力がないだけではなく、
「人から言われると、その言葉を信じてしまう」
というところがあったからだ。
「信じている」
とう素振りを見せないと、相手に信用してもらえず。結局、
「マウントを取られて、一度言い返せなかったことで、次からは何も言えなくなるのだ」
ということである。
「マウント合戦というのは、本当にタイミングが大切だ」
ということであろう。
マウントと錯覚というのが、別に関係のないことだというのは、当たり前のことであろう。
しかし、
「一度マウントを取られてしまうと、二度と浮上できないと考えてしまい、相手の思っていることをすべて、正しいとして考えなければいけない」
ということで、錯覚ではなくても、錯覚をしてしまったと思うのは、
「感覚がマヒしたからだ」
といってもいいだろう。
それを考えると、神社で、
「狛犬が大きく見える」
というのは、錯覚ではなく、理屈的には正しいことだと思えるにも関わらず、どうしても錯覚の類にしてしまいそうになるのだった。
狛犬が大きく見えることが、
「どうしてなのか?」
と考えたが、その理由が、
「影の部分が、クッキリと、さらにどす黒く見える」
からである。
どす黒さというのは、
「モノクロ部分をより立体的に見せる」
ということから、まるで、大きな壁をスクリーンとした、影を後ろに投影されたものに見えることで、さらなる恐怖を感じさせるのだった。
実際に映し出された影というのは、正面から見ていると、一番濃いところと、明るいところの差が激しいせいか、錯覚に陥りやすいほどの、大きさに錯覚を感じさせる。しかし、少し斜めになると、写っている形は、
「これほどいびつなものはない」」
と思わせるのだが、それは、
「壁自体が、きれいな平面になっているわけではない」
ということであるが、それは、ただの錯覚では済ませられないだろう。
いびつな状態に見えるための、一種の援護射撃としては、
「まわりの明かりの曖昧さに、はっきりしないボンヤリとなっているさまが、映し出されるからではないだろうか?
蛍光灯であったり、松明のようなものであったりすれば、その姿は、
「炎に揺られる形で、徐々に大きくなったり、小さくなったりと、その不規則性により、明るさというものが、曖昧になってくる」
といってもいいであろう。
暗くなった部分がより大きく見えるのは、
「モノクロ」
という、
「最小限の比較対象しかないからではないか」
と感じるのだった。
そんな曖昧な明るさが、いずれ慣れてくる前に、頭痛となって、現れることがある。実に厄介なことであった。
その頭痛は、社会人になって最初に感じたことだった。
大学時代のバイトというと、田丸に限らずであるが、そのほとんどが、
「肉体労働」
ということになるであろう。
「座っていると怒られる」
という現場の仕事で、
「休んでいるくらいなら、掃除でもしてくれ」
ということであった。
しかし、それはあくまでも、
「慣れた人」
にだけいえることで、
「それ以外の人には、何も言えない」
ということであった。
そんな田丸は、会社に入ると、最初は研修として、現場に背側されたが、事務処理としての管理業務から、先に覚えることになったのだ。
椅子に座っての、伝票を裁くだけの仕事、それまでのアルバイトとは、
「真逆」
だったのだ。
これこそ、
「いったん前を向いて、先まで行きついた後に、戻ってくるということで、
「研修というのは、無駄だと思えることもあるんだな」
と感じるのだった。
頭痛のひどさは、前述の、
「飛蚊症」
の時の症状と似たものだった。
まったく同じではないということで、
「似て非なるもの」
といっても過言ではないだろう。
それを考えると、
「飛蚊症の症状」
としては、最初に飛蚊症がきて、そこから、頭痛、吐き気をもたらすものが、
主だったが、逆に、
「最初に頭痛が来てから、飛蚊症になり。飛蚊症が収まってくると、今度は、吐き気が頭痛に伴ってくる」
というものもあった。
多いのは前者であるが、後者も決して少ないわけではない。
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次