捏造が、偽造となり、真実になった事件
「覚めた酔いというのが、そのまま、身体を通りぬける風になったかのように感じられ、暑さと寒さのバランスが、今度は足し算のように、プラスになったり、マイナスになったりしているようだが、最終的には、マイナスに落ち着くことで、寒気が震えとなって、襲ってくる」
ということであった。
「こんなことなら、飲まなきゃよかった」
と思うのだ。
しかし、元々は、帰り道にて、風の冷たさに、居酒屋のおいしい煮込みの匂いがしてくれば、その誘惑に勝てるだけの意志はなかった。
そもそも、
「行かない」
という選択肢自体がなかったのだ。
「お金がもったいない」
という気分もなかったし、
「酒を飲みたい」
というよりも、
「居酒屋の雰囲気を味わいたい」
という思いが強かったのだ。
居酒屋というものが、自分にとって、いかにありがたいものであるのかというのは、幼少期から、いじめられっ子だった自分が、こうやって馴染みの店を持つことができるというのが嬉しかったのだ。
しかし、だからといって、常連の輪の中心にいたいとは思っていない。
それよりも、まわりがどのような雰囲気になり、
「なぜゆえ、楽しいと思うのか?」
ということが知りたいと感じるのであった。
「きっと、誰か一人の、必ず集団があれば、一人はいるという、輪の中心になりたがる人」
のことである。
しかし、子供の頃は、一つの団体で、そういう。
「輪の中心にいたい」
という人は一人だけだとは限らない。
複数いてもしかるべきで、実際に、中学生くらいの頃から、一つの団体で、派閥のようなものができたことで、
「団体が分裂する」
ということも普通にあった。
完全に、
「空中分解してしまった」
といってもいいくらいの連中がいて、そのせいもあってか、
「輪の中」
というものが、
「いかに不思議なものであるか?」
と感じさせ、大人になった自分が、
「それでも、輪の中心は嫌だ」
ということで、ある意味、派閥の中を、
「逃げ回っていた」
のかも知れない。
それこそ、まるで、
「卑怯なコウモリ」
のようだが、
「それの何が悪いというのか?」
助かりたいと思うのは、人間の本能で、備わった身体の特徴を使って、詭弁かも知れないがそれで逃げられるのであれば、何が悪いというのか?
そもそも、動物には、身体の特徴として、
「天敵などを寄せ付けないようにするために、持って生まれた特徴があったりする」
という。
それが、
「保護色」
であったり、
「ハリセンボン」
などのように、身体全体を覆っている針だったりするわけではないか。
何も身体的に自分を守るだけの特徴がないコウモリは、
「見た目」
ということで、保身を図ったとして、それを、
「何の卑怯だ」
というのか、
それを思うと、そもそも、何が卑怯なのかということを思えば、不思議で仕方がなくなるのであった。
捏造
その日、
「虫の知らせ」
を感じたのは、家に帰る途中には、小さな神社があるのだが、そこの前を通りかかった時、違和感を感じた。
「その違和感が、どこから、どのように来るものなのか?」
というものが、すぐに分かったというわけではなかった。
ただ、
「目に怪しい光を感じた」
というのが本音であり、それは、一瞬だけのことで、
「気のせいではないか?」
と言われれば、それまでのことのように思えるのであった。
というのも、無理もないことであって、その時にふと感じたのが、
「目まぐるしく変わる、紅葉の色のようではないか?」
ということであった。
そして、それが、
「飽きと秋」
というダジャレを思い出させ、思わず苦笑してしまった自分がいるのに気が付いた。
まわりに誰もいるわけではないのに、何か気になったりして、何とも不可思議な心境になっているのであった。
その神社というものは、一種の、
「石ころのような存在」
と、子供の頃から意識していた。
「目の前にあっても、変な意識を持つことはない」
つまり、逆に、
「意識を押し殺している」
という感覚なのかもしれない。
だから、
「目の前に見えているのに、意識することはない」
という、本来なら、
「なぜなんだろう?」
という意識を持つはずなのに、スルーしてしまうのは、それだけ、違和感のなさが、その場の雰囲気を
「凌駕している」
といってもいいのかも知れない。
確かに石ころというと、イメージとして、
「河原にたくさん落ちているもの」
という雰囲気である。
堤防になっているところから、河原になっていて、雑草がたくさん生えていて、その策の川となっているところまで、大小さまざまな大きさや、形の石が、そのあたりに、ゴロゴロあるというものである。
同じ、
「水辺」
ということで、
「海」
の場合は、まったく違っている。
海辺というと、基本的にあるのは、二つである。
一つは断崖絶壁のようなところであり、
「積年の間に自然の力でできあがったオブジェ」
ということで、そのすごさには感服させられるというものであった。
しかし、もう一つは打って変わって、
「何の変哲もない」
といってもいい。砂浜が広がっているわけである。
その砂浜は、きめの細かい砂であり。そこには、石ころがあったとすれば、目立つであろうと思えるが、実際にはない状態だといってもいい。
しかし、ものが石ころだけに、
「あったとしても、目立たないんだろうな」
という思いが強くなっていったのだ。
しか、考えてみれば、この砂浜というのは、
「自然界のオブジェ」
と言われた、断崖絶壁よりも、もっとすごいのかも知れない。
こちらは、それこそ積年の間に。オブジェを作る以前に、元々は、石ころのようなものだったはずなのに、それを波と潮で、完全に粉砕し、言葉のごとく、
「粉々に粉砕した」
ということになるのであろう。
それを思うと、
「砂浜は、その静けさは、まるで、動かざるごと山のごとしとでもいうような感覚ではないだろうか?」
そういう意味で、
「どこか石ころと似ている」
と感じられ、
「河原の石ころと、砂浜の砂とでは、その元祖を同じとする」
ということになるのではないだろうか。
その日の、神社を通りかかった時、そこまで感じたということを、後になっても忘れていないのは、それだけ、その時に、
「石ころ」
というものを感じた時、その発想が、砂浜に通じたということっで、
「何か、過去からの疑問が一つ解決された」
という気がしたからではないだろうか。
その後のことは、その感覚があったからなのか分からないが、決して、
「保身のために、でっちあげたことではない」
といえることであった。
その思いがいかなるものなのかというのは、その時は、あくまでも、
「虫の知らせ」
でしかなかったのだ。
そう、この時の、
「虫の知らせ」
というのは、一つではなかった。
一つ一つの場面で、それぞれに、
「虫の知らせ」
というものが、用意されていたといってもいいのかもしれない。
そもそも、
「虫の知らせ」
作品名:捏造が、偽造となり、真実になった事件 作家名:森本晃次