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捏造が、偽造となり、真実になった事件

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「弁護士が来るまで、何もしゃべらない」
 ということになるのだ。
 弁護士というのは、
「依頼人の利益を守ることが最優先」
 ということなので、容疑者にとっては、
「一番ありがたいことだ」
 といってもいいだろう。
 警察も昔のように、
「自白の強要」
 ということはできなくなってしまった。
 昔の昭和の警察というと、刑事ドラマであるように、
「強引に、拷問に近い形で、自白を強要させたり、逆に、かつ丼を与えて、何とか説得しようとする」
 という、そんな、
「餌で釣る」
 ということも今はできないであろう。
 しかし、今の時代になると、
「弁護士の入れ知恵なのか、裁判でひっくり返される」
 ということになるのだ。
 つまりは、裁判で、
「警察に自白を強要された。本当はやっていない」
 と、罪状認否を聞かれた時に答えればいいのだ。
 だから、昔であれば、、
「自白」
 というのが、物証に近いくらいであったが、今では、逆に、
「ひっくり返される理由」
 にされてしまう。
 だから、自白は、
「物証に対して、補足的なもの」
 ということくらいにしておかなければならない。
 たとえば、
「物証だけでも、起訴できるが、容疑者に、動かぬ証拠を突きつけることで、言い逃れはできない」
 と思わたところでの自白であれば、理論的には通っているので、弁護士も、それで裁判をひっくり返すなどということはできないに違いない。
 そんなことを考えていると、

「今日どうして、老人がいなかったんだろう?」
 と考えてしまう。
 老人がいなかったことくらいで、こんなに気になることもないはずなのだ。何といっても、それほど親しい仲ではないからであろう。
 田丸としては、
「何かの虫の知らせ」
 のようなものがあったとしか言えないのだった。
 帰り道というのは、途中までは、商店街があったりして、もちろんシャッターは閉まっているのだが、それほど不気味な感じはしない。
 しいていえば、
「カツンカツン」
 という乾いた音が、アーケードや、シャッターに反射することで、余計に音を倍増させているように思えてならないのだった。
「いつもの帰り道」
 ということで歩いていたのだが、アーケードを抜けたところから、急に寂しくなり、普通の人なら、
「怖気ずく人もいるかも知れない」
 と感じるものだった。
 しかし、
「これまでに、ずっとこの道を歩いてきて、慣れている」
 というのはあるからか、
「怖さもなくなってしまった」
 というか、本当であれば、
「感覚がマヒした」
 というべきであろう。
 そもそも、臆病な田丸だったが、
「それとこれとは違う」
 と思っている。
 というのは、
「今感じている臆病な気持ちは、子供の頃の苛めを思い出すから」
 だったのだ。
 大人になってから、
「少しずつ分かってきた気がする」
 ということであったが、それが、どういうことなのかまでは、正直分かってはいなかった。
「幽霊や妖怪、あるいは、サイコパスなホラー」
 を恐怖と感じることもあるが、
「まわりのプレッシャーがトラウマになったりして、それが恐怖として、根付いてしまった」
 というのも、完全な恐怖心を掻き立てるというもである。
 田丸の場合は、子供の頃は後者で、大人になって前者だった。
 もし誰かにいうと、
「お前変わってるな」
 と言われることだろう。
 だから、誰にも言わないでいると、人と話すこと自体が、億劫になってくる。
「俺って変わっているんだろうか?」
 と、結局はそう思うのだった。
 その日は、何か、恐怖に対しての、
「虫の知らせ」
 のようなものがあった。
 最近では、この辺りの寒さが身に染みて感じられるようになっていたのだが、そのことを田丸は、よく分かっていた。風の強さもさることながら、雨も降らずに、乾燥している空気は、夏のそれとは、まったく違う。
 特に最近では、
「秋というものがなくなってきたような気がする」
 とよく言われるが、それはきっと、夏の間が長いからではないだろうか?
「7月あたりから、猛暑日が続き、盆明けくらいから、少しずつ猛暑日は減ってくるが、そこから1か月ほどは、30度以上の真夏日が、
「長すぎる残暑」
 として、その言葉どおりに、残っているのだった。
 だから、
「秋という季節」
 を感じるようになるのは、10月でも、中旬くらいからのことなので、今度は、12月に迫ってくると、今度は、初冠雪であったりと、冬に突入することになるのである。
 秋というと、どうであろうか。
「寂しい季節」
 という印象があるが、どうなのだろう?
 田丸は、確かに秋を、
「寂しい季節」
 という認識で持っていたのだが。その理由として、
「秋という季節は、飽きがくるからではないか?」
 というダジャレで感じていた。
 といっても、これは一種の、
「逆の発想」
 であり、決して、
「飽きがくる」
 とは思っていない。
 逆に、
「飽きさせない季節が秋なのだ」
 と思っている。
 というのは、飽きの代名詞として、
「紅葉」
 というものがあるだろう。
 紅葉は、どんどん色を変えていく、一週間経てば、そのあたりの景色は一変するだろう。だから、
「飽きの来ない季節」
 ともいえるが、それはあくまでも、
「見ている自分たちだけが感じるものだ」
 ということであり。実際に、
「彩を醸し出している」
 という紅葉の側からすればどうであろう?
 本当は、その中に、自分にあった形の
「季節の色」
 というものが存在していて、それが、紅葉の中での、
「昆虫でいうところの成虫」
 のようなものだとはいえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「紅葉というものは、見ている側と、演じている側で、その心理の想像を許されるのだとすれば、真逆なのではないか?」
 と感じさせるのではないだろうか?
 紅葉を見ていると、
「秋はあっという間である」
 ということと、
「飽きもあっという間だ」
 とも一緒に感じる。
 しかし、この言葉は逆にも受け取れる。
 飽きというもの自体が、あっという間なのに、それが、あっという間に過ぎてしまうということは、
「マイナスにマイナスを掛けることで、プラスになるのではないだろうか?」
 これは、加算であれば、
「お互いの数字によって変わってくるものであるが、
「必ずプラスになるわけではない」
 ということなのであって、しかし、これが掛け算ということになれば、必ずプラスになるのだ。
「本当に算数というのは面白いな」
 と感じるのだが、だから、小学生の頃から、算数が好きだったのだということを、いまさらながらに思い出させるのであった。
 そんな寒さも、夜には特に感じられるようになり、店を出るまで、あれだけポカポカしていたのは、日本酒が身体を回っていたからだろう。
 しかし、その日本酒というものも、完全に身体をめぐってしまうと、今度は、外気に特に敏感に反応してくるのであった。
 寒さが身に沁みるのは、