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捏造が、偽造となり、真実になった事件

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 ということが、どういうことなのかということをまったく分かっていないということで、
 田丸は、当然のことながら、
「罪の意識」
 など、かけらもなかったといってもいいだろう。
 ただ、実際に人に罪を擦り付けるというのは、いくら、
「罪の意識はない」
 といっても、
「何となく気持ち悪い」
 ということになるのだ。
 実際に、罪の意識はないだけに、
「この気持ちは何なんだ?」
 というものだった。
「後悔?」
 とも感じた。
「人に対してなのか?」
 それとも、
「やってしまったことに対してなのか?」
 ということが分からなかった。
 人に対してであれば、最初から、
「罪の意識」
 というものがあるのだろうが、
「人に対して」
 ということでなければ、罪の意識もないだろう。
 ということになると、
「罪」
 ではなく、行為という意味でいけば、ひょっとすると、心の中に、
「自分がやられたらいやだろうな」
 という思いがあるのだろう。
 普通、人は、
「自分がやられると嫌だ」
 ということに気づかないから、こういう行為を平気でしてしまうのではないだろうか?
 それは、
「罪の意識はありながら、それでもしてしまうということの理由の一つではないのだろうか?」
 ということであった。
 実際に罪の意識が、あるのであれば、本当なら、犯罪など犯さないというものではないだろうか?
 しかし、これが、
「殺人罪」
 などということになると、
「背に腹は代えられない」
 という人もいる。
「明日の食べるものがない」
 であったり、
「ホームレスになるしかない」
 あるいは、
「借金取りに追われている」
 などという、切羽詰まった状況に、リアルな状況が突入すれば、どうしようもないということになるであろう。
 もう一つは、
「復讐に燃える」
 という動機の場合は、これは、切羽詰まったリアルな現状というのとは少し違い、精神的なものからくるものなので、
「世の中に対して、少し目線の高さが違っているのかも知れない」
 といえるだろう。
 今の世の中、
「どこで誰に恨まれているか分からない」
 といえる。
 特に、ネットが普及してからこっち、誹謗中傷なるものも、結構大きな問題となっていて、誹謗中傷をすることで、
「いかに、世の中を悪く書いたとしても、日意図を誹謗中傷したとしても、ネットの世界は、匿名性なので、やりたい放題だ」
 ということであった。
 しかし、それも次第に、
「誹謗中傷によって、自殺をする」
 という人が増えてきたことで、もう、
「個人情報の保護」
 ということを理由に何もできない時代ではなくなってしまったのである。
 要するに、個人情報において守られるべきものを見失ったことで、
「なんでもかんでも、個人情報だ」
 ということでの風潮が大きくなったのかもお知れない。
 それによって
「どこまでが許されるのか?」
 ということも曖昧になってきた。
 そもそも、犯罪に関係してくることなのだから、
「どれも悪いこと」
 に相違ないのだろうが、その境界線をしっかりしいておかないと、
「復讐心に燃える」
 恨みの塊のような人間は、それこそ、何をするか分からないということになるだろう。
 そんな人が世の中にあふれることから、誹謗中傷なども起こっていくのだろう。
 そもそも、
「リアルでは、人と口を利くこともできないくらいの人だからこそ、匿名を理由に、誹謗中傷ができる」
 というものである。
 しかし、誹謗中傷というのは、
「いくらでもできる」
 ということを、無限だと考える人がいるから、また厄介なのだ。
 これと似ているものとして考えられるのが、
「ストーカー事件」
 ということではないだろうか。
 相手の家をつけて確かめたり、夜間に無言電話を掛けたり、玄関先にごみをぶちまけるなどという行為を繰り返す人もいれば、
「好きだ」
「愛している」
 という言葉を、メールなどで、無数に送り付けるというやつもいたりする。
 一種の、
「愉快犯」
 というべきか、
「相手が困っている姿を見ることが快感」
 ということで、本当に恋愛感情があるのかどうなのかというよりも、それ以上に、相手の反応を見たいということで、それを恋愛感情だと勘違いしているのだとすれば、それは実に難しいことだといえるのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「ストーカーというのは、愉快犯に分類されてもいいかも知れない」
 と感じる。
 ということは、
「これは、頭のいい犯罪ではない」
 ともいえるだろう。
 結局、
「ストーカー防止条例」
 というものが、
「あまりにも遅い」
 と言われることになるだろうが、何よりも、
「いずれは制定されるものだ」
 ということなので、ストーカーというものも、永遠に続けることができないもの」
 ということで、問題になったとしても、その大きな影響は、社会問題になった時点で、
「その人の人生は終わり」
 なのである。
 確かに、最初の頃は、法整備もされていないので、
「警察は何もできなかった」
 もっとも、
「今だって、ほとんど何もできない」
 というのが当たり前ということだ。
「できない」
 というよりも、
「しようとしない」
 と言った方がいい。
 この、ストーカー問題にしても、誹謗中傷問題にしても、
「個人情報保護の観点」
 ということが、その裏に潜んでいるので、
「何もできない」
 というのは、そこに抵触することが問題なのだろう。
 しかし、実際に、
「問題が起こっているのだから、何もできないというのは、警察官としても、苛立ちが残り、ストレスになるかも知れない」
 皆が皆同じだとは思えないが、考え方の違いだといってもいいのではないだろうか?
 そんな中において、自分を、
「卑劣な人間だ」
 と、自分を追い詰めるような考え方をしていると、家に帰ろうとしているところで、その日は、帰りにいつもの居酒屋に立ち寄って帰ったのだが、その時間もいつもと変わりない時間だったが、いつもよりも少し遅く感じたのは、
「いつもの爺さんがいなかった」
 ということからではないだろうか?
 いつもの爺さん」
 というのがいないと、寂しいという感覚は、別にその爺さんと仲が良く、
「いつも話をしているからだ」
 というわけではなかった。
 どちらかというと、
「その爺さんがいてくれると、安心できる」
 という感覚で、爺さんが、一言いうと、納得もしていないのに、
「うんうん」
 と頷いている自分がいるのだった。
 爺さんは、名前を、
「やまさん」
 と言われていた。
 それこそ、まるで、昔の刑事ドラマの刑事につけられたニックネームのようではないか。それが、
「昭和の刑事ドラマ」
 と言われるもので、
「中身は変わっていないが、時代を思わせる」
 というものだ。
 取調室では、
「別件逮捕」
 で、逮捕した容疑者を、
「吐け」
 といって、強引に脅迫めいたことをして、苦しめている様子を思い出すのであった。
 今そんなことをすれば、
「コンプライアンス違反」
 ということになるだろう。
 だから、昔もそうであるが、容疑者は、取調室に入ると、