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輪廻対称

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「過去に戻って、例えば、中学生くらいの自分に戻ったとして、魂が、中年くらいだったとして、身体は少年、頭は大人という、中途半端な人間が出来上がったというだけで、果たして、中学生として、おかしく見えるようなことにならないだろうか?」
 というのは、
「あいつはまるで別人になってしまったようで気持ち悪い」
 と言われて、誰も友達がいなくなってしまう可能性だってあるのだ。
 いくら、未来に続く記憶があるからといって。
「絶対
的に有利だ」
 ということになるわけはないだろう。
 それを考えると、
「タイムリープ」
 というものにも、一長一短がある。
 といえるだろう、
 いや、
「短所ばかりしかないのかも知れない」
 あくまでも、シチュエーションとして、
「記憶を持ったまま、昔の自分に乗り移るのだから、有利に決まっている」
 という発想が、そうさせるということになるのだろう。
 そんなことを考えていると、
「過去に戻りたい」
 という発想は、あまり持ちたくないと思うのだった。
 もう一つの、
「タイムループ」
 であるが、これは、かなり
「都合のいい発想」
 であり、
「やり直しが何度でもできる」
 という発想である。
 これは、前提として。
「あの時が問題だったんだ」
 と、ターニングポイントというものが分かっている場合のことである。
 それだけでも、かなり有利なのに、さらに、今度は、
「何度でも、同じシチュエーションを繰り返せる」
 という発想が、
「タイムループ」
 というものである。
 何度でもとは言ったが、制限がないわけではない。そこは、
「常識的な数字として、多くても10回というのが、いいところであろう」
 ということである。
 さらに、タイムループというのは、
「過去に、自分自身が向かうという、タイムスリップ的な発想であったり、記憶を持って乗り移るというタイムリープのようなもの、それぞれに可能性がある」
 ということのようだ。
 それは、
「仮想空間」
 としての、発想によるものなので、いくらでも、考えられるというものだ。
「未来には可能性が無限に広がっているが、それは、本当の無限から見れば、有限なのかも知れない」
 ということになるであろう。
 つまり、
「無限という言葉には、相当の幅がある」
 ということではないだろうか。
 その時に、一つ頭をよぎったのが、
「ロボット開発問題」
 ということであった。
 ロボットというものに、人工知能を持たせて、それを使って、考えた行動をするロボットというものを開発しようとした時、
「無限に広がる可能性を、ロボットがいかに判断できるか?」
 ということが問題であった。
 今であれば、
「AI」
 というものが発達してきたので、昔ほど、ハードルが高くないのかも知れないが、
「その問題をいかに解決するか?」
 ということだったのだ。
 その問題というのは、
「フレーム問題」
 と言われるもので。これは、
「次の瞬間広がっている、無限の可能性というものを、いかに、ロボットが判断して行動ができるか?」
 ということであった。
 そこで、
「可能性を、それぞれのカテゴリーに分けることで、可能性を有限にさせよう」
 ということで、
「有限の可能性というものを、フレームに当てはめる」
 という考え方から、
「フレーム問題」
 と言われるようになったのであるが、果たして、そううまくいくであろうか?
 これは、実は、
「小学生でも分かる発想で、いわゆる、算数の問題なのである」
 つまり、
「いくつかのパターンに分けるということは、割り算である」
 どういうことかといえば、
「無限から何かを割る」
 ということであるが、そこで算数の考えたとして、
「無限というものは、何で割っても無限にしかならない」
 ということである。
 確かに、
「割る前の無限と、割った後の無限とは、次元が違う発想であるが、無限であることに変わりはない」
 ということである。
 結局、当てはめたフレームの中が、無限になってしまうのであれば、どうしようもないことだといっても過言ではないのだ。
 そもそも、
「使うフレーム」
 というのも、無限なのかも知れない。
「無限から、何をやっても、結果は無限でしかない」
 ということで。それこそが、
「無限というものの恐ろしさではないか」
 といってもいいかも知れない。
 ただ、一ついえることは、
「人間にはフレーム問題はあてはまらない」
 ということだ。
 人間は意識的無意識関係なく、無限に広がる可能性を判断し、行動をしているではないか。
 もちろん、未来に不安を感じる人はたくさんいるだろうが、
「次の瞬間、何が起こるか怖くて、行動できない」
 という人は、そんなにいないだろう。
 もちろん。有事のように、まわりを包囲されていて一歩も動けないという状態であれば、未来というものが、不安でしかない」
 と思うと、
「そんな極限状態で、冷静な判断ができるかというと。難しいものである。
 だから、
「人間というのは、打たれ弱い」
 ともいえるだろう。
「疑心暗鬼」
「猜疑心」
「嫉妬心」
 などというものが、人間にはあり、絶えず、
「自分が信じられない」
 と思って行動している人が多いことだろう。
 それを思うと、
「人間には、フレーム問題というものをもろともしないという、冷静さを兼ね備えているが、逆に、どうしようもないほどの弱さというものも、兼ね備えている」
 というわけで、
「果たして、人間というものになっている自分」
 というのは、
「幸せなのかどうなのか、分からない」
 ということである。
 「輪廻転生
 という言葉があるが、
「人間に生まれ変わることができる」
 という発想も、宗教によって違うようだ、
「人間に生まれれば、何度、転生しようとも、人間にしか生まれ変われない」
 というものもあれば、宗教によっては、
「天国に行けるような、紙や仏になれるような人であるか、あるいは、地獄に行くような人は人間に生まれ変わることはできないが、それ以外は、人間に生まれ変わる」
 というものである。
 ただ、その生まれ変わる場合も、何かの意図が働いているのかは分からないだろう。
「どんな親の元に生まれるかということで、人生が変わる」
 ということもあるというが、
「親に限らず、生まれる国によっても変わるであろう」
 戦争や、専制君主の国に生まれ、奴隷同然の扱いを受けないとも限輪内というものだ。
 それだけではない。
「生まれた時は、平和な国であっても、いつ戦争が起こったり、クーデターによって、軍事政権が起きないとも限らない。時代は、同じでも、地域が違ったり、逆に、地域が同じでも、時代が違えば、まったく違う光景が、目の前に広がっている」
 というものである。
 それこそ、運であり、運の良し悪しによって、人生が変わるというのは、
「仕方のないこと」
 といってあきらめるのか、それとも、
「何かの因果が、自分のせいにかかわらず、報いてしまう」
 ということになるのだとすれば、それこそ、
「理不尽だ」
 といってもいいかも知れない。
 それこそ、
「因果応報」
作品名:輪廻対称 作家名:森本晃次