輪廻対称
というもので。この言葉は、
「自分が悪い」
という場合に使われる言葉であって。前世であったり、祖先という、自分とは直接関係のないことが報いとして起こるのであれば、それこそ、
「ろくなものではない」
といえるだろう。
自分にも、ドッペルゲンガーが存在するとするならば、輪廻転生したもう一人の自分という、
「ドッペルゲンガー」
も存在しているのかも知れない。
ドッペルゲンガーというものが、実は、もう一人の自分ではあるが、
「双極性のあるもの」
ということになるのだろうか?
例えば、まるで、
「鏡に映ったその姿」
が、その向こう側に映っていると考えて、実は、その鏡が、
「中途半端なものだ」
といえるのではないだろうか?
「その中途半端なところがどこからくるのか?」
というと、それは、
「左右は対称になるのに、上下は対称にならない」
ということである、
これは、科学的に証明されているわけではないが、いろいろな説がある。
しかし、そのどれもが、
「これが正解だ」
ということはなく、どちらかというと、
「一長一短」
であり、
「帯に短したすきに長し」
と言ったところであろう
ただ、問題はそこではない。
「そんな疑問に感じるのが当たり前いることであった。のことを、ほとんどの人が、これを当たり前のことだ」
ということで、片付けてしまっているということである。
世の中において、そういう不可思議なことは多いもので、心理学的にも、科学的にも証明されていないようなことも結構ある。
それが、
「現象」
であったり、
「症候群」
と呼ばれるものであったりするのであろう。
その代表例としては、
「デジャブ」
と呼ばれるものである。
「今までに行ったこともないはずなのに、まるで、以前に来たことがある」
というような心境を、ほとんどの人は、最低でも一度は感じたことがあるだろう。
それを、
「都市伝説的」
に考えるとすれば、
「前世での記憶がよみがえったからではないか?」
ということと言われることがある。
また、もう一ついえば、
「非常に似たところの記憶が、錯綜するからなのか」
それとも、
「似た記憶というものが、何かを引き寄せるという考え方」
であった。
これは、今はやりというべきか、
「引き寄せの法則」
というものが、影響しているということであれば、一つの理屈として、
「引き寄せの法則」
というものも、その定義に一役買っているということで、
理屈としては、成り立つものだ」
といってもいいのかも知れない。
似たものが引き寄せるということは、自分だけの問題ではなく、
「伝説や、言い伝えにも、影響を与える」
ということになり、それが、現代で巻き起こった曖昧なという定義を持つ。
「都市伝説」
ということにも結び付いてくるのだった。
一つの症候群として、
「カプグラ症候群」
というものがある。
これは、誇大妄想の一つなのだが、
「自分の周りの近しいひとが、悪の秘密結社によって、替え玉と入れ替わっている」
というものだ。
これは、
「マンガ」
であったり、
「子供向けの特撮」
などでよく言われるものであろう、
その特撮番組では、
「町全体が、一つの大きな集落として、自分以外の皆が入れ替わっているという発想であった。
しかも、それは、
「自分だけに起こったことではなく、皆に起こりえる」
ということであった。
これは逆にいえば、
「実際の現象というよりも、頭の中を操作されたことで、あたかも幻影を見せられたり」
あるいは、
「集団催眠」
というようなものに罹っているのではないか?
という発想であったりするのであった。
限りなくゼロに近い
「限りなくゼロに近い」
というものを考えた時、それが、
「無限」
というものと、対称だといってもいいのではないだろうか?
例えば、
「合わせ鏡」
や、
「マトリョシカ人形」
などが、その、
「最たる例だ」
といってもいいだろう。
昔の特撮番組のタイトルに、
「無限へのパスポート」
というものがあった。
まだまだ子供だったので、タイトルの意味など分かるわけもない、しかし、
「何か印象深いタイトルだな」
ということで、タイトルだけでも、その話の内容が分かるような気がしてくるのも不思議なことだった。
無限へのパスポートということは、無限というものが、どこか他にあって、その世界に入るための、
「交通手形」
のようなものだということだ。
それは目に見えるのではなく、まったく見えないものをいかに見えるかのように感じるという、一種の錯視といえるのではないだろうか?
「錯視」
と呼ばれるもので、一番ピンとくるものとしては、
「サッチャー錯視」
というものであろうか、
この現象は、
「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」
と言われている。
要するに、
「上下逆さ」
というところが、錯視の原因なのだろうが、考えてみれば、前述の鏡に映る姿を考えた時、
「上下は、どうして反転しないのだ?」
ということがあったが、まさにその通りであった。
これは、いろいろな理由が提唱されているが、これも、
「帯に短したすきに長し」
ということで、決定的な結論はないのである。
考えてみれば、
「左右が反転するのに、上下が反転しないのは、当たり前じゃないか?」
と思っていた。
「何をそんなに慌てているんだ?」
というくらいに不思議な感覚になるのだった。
確かに、
「左右が反転する」
というのは、
「こちらを向いているのだから、左右がそれぞれ一番近くに映っている方が、映っている」
という意味で。
「こちらを向いているのだから」
という理由で正解なのだ。
もっといえば、
「鏡に映る現象が間違っているわけではなく、反転しているという考えが間違っているのではないか?」
ということが、そもそも間違いなのではないか?
ということである。
だが、上下が反転していないのは、
「実際に映っていることも、映っているということに間違いがない」
ということも、どちらも満たしているからではないだろうか?
物事には、二つの段階があり、その両方が満たされなければ、ほとんどのものは、
「疑わしいもの」
ということになるだろう。
しかも、その、
「疑わしいもの」
というのは、かなりの数を占めているのである。
だから、曖昧なものが多すぎるので、都市伝説と普通の伝説の境目もなくなってきて。本来であれば、
「曖昧なもの」
ということだけで済ませられるものも、結局は、
「都市伝説だ」
というところまで考えなければいけないのではないだろうか?
それを考えると、
「都市伝説と言われそうなものがどれほどあるだろうか?」
「限りなくゼロに近い」
といってもいい、
「無限」
という発想も、実際には、
「曖昧なもの」
というだけで、その考えがどこまで信憑性があるものなのかということになる。
そういう意味で、
「曖昧なもの」