輪廻対称
ということである。
今の時代であれば、警察官の身内に犯罪者がいれば、
「警察を辞めなければいけない」
というそんな時代である。
それを考えると。
「入れ墨などしている町奉行が許されるのであれば、江戸幕府というのは、本当にひどい政府だった」
といってもいいだろう。
それこそは、洒落本だったということで、別に問題はなかったのかも知れない。ただ、それも、時代のタイミングというのもあるわけで、それによって、とらえ方も違っていたに違いない。
将棋のように、
「減算法」
というのは、戦を進めていくうえと似ていることから、分かりやすいのかも知れない。
「では、
「加算法」
として考えられる、囲碁というのはどういうものなのであろうか?
これは、将棋とはまったく違い、最初に、盤の上には、碁石が乗っているわけではない。碁石は、最初だけは決まっていて、そこからは、黒と白が、
「自分の陣地を獲得する」
というゲームであった。
将棋との一番の違いは、もちろん、
「最初から、駒や石があるかどうか?」
ということであるが、さらに違うというのは、
「囲碁は将棋のように、いくつも、動きが違う駒があるわけではない」
ということである、
なぜなら、当たり前のことであるが、
「囲碁は、将棋のように、一度盤の上に石を置いたら、動かすことはない」
というものである。
囲碁というものは、戦のように、
「自軍を動かして、敵に迫っていく」
というものではない。
まっさらな盤の上に、ひとつづつ石を置いて、そこで、陣地を作っていくというもので、こちらは、
「戦」
というものではなく、
「要塞の建設」
とでもいえばいいのか、
「建設をしても、そこまでで、相手に攻め込んで、王将を取る」
ということではないのだ。
将棋が、
「豪」
であれば、囲碁は、
「静」
といってもいいだろう。
加算法とは言っても、確かに、何もないところから、築き上げる」
ということは、攻撃的なところがあると思っていたが、
「盤の上では」
ということになれば、将棋の方が圧倒的ンに強いということであるが、一歩でも盤の上から離れれば、その神通力はあったく通用しないといってもいいだろう。
「加算法と、減算法というのは、それぞれに対になるものであるが、その間に、何か、見えないものが介在している」
といってもいいかも知れない。
ただ、何かの発想として、
「もう一つの定義が、真ん中にあり、その定義が、お互いを誘発しない」
というような力を持っているのかも知れない。
それが、
「何かの抑止力」
というものを秘めていて、このお話の根幹に進むにつれて、
「何かの関係が分かってくるようになると、その力がどちらに向いているのか?」
ということが分かるようになってくるというものだ。
「それがどのようなものなのか?」
ということを考えると、
「盤の上というのが、どういうことなのか?」
ということを考えると、
「盤の上というもの自体が、それぞれの抑止力というものになっているのではないだろうか?」
と考えられるのであった。
交換殺人と一人二役
ミステリーや、推理小説と呼ばれているものは、日本に入ってきた時には、
「探偵小説」
と言われていた。
この探偵小説というのは、元祖として、
「シャーロックホームズ」
のような探偵であるというのは、当たり前のことであるが、逆に、
「怪盗が主人公」
というものがあり、それが、有名な、
「怪盗ルパンシリーズ」
である。
こんなそれぞれ対照的な主人公が、
「探偵小説の魁」
などと言われると、前述にある、
「減算法と加算法」
というような考え方になるといってもいいだろう。
前述の
「囲碁と将棋」
というたとえのように、二つの両極端なものが、
「いかに抑止力として働いているか?」
ということを考えると、実に、
「おかしなバランス」
といってもいいだろう。
しかし、やはり探偵小説といえば、今でも世界的に大人気で、
「シャーロキアン」
と呼ばれる、
「シャーロックホームズのファン」
と呼ばれる人もいるに違いない。
探偵小説における、
「トリックというものは、探偵小説とは、切っても切り離せない」
というものであるということである。
実際に、シャーロックホームズの本を、どこまで読んでいるかということにもよるが、その後、日本に渡ってきてから、黎明期から育まれてきた、
「トリック」
というものは、時間が進むにつれて、次第にたくさん出てくるようになり、実際に、いくつかのパターンに集約されるようになり、
「すでに、黎明状態において、出尽くされた」
といってもいいのではないだろうか?
実際に、その頃には、
「探偵小説についての評論などというものも結構あり、海外では、
「タブーとされるもの」
ということで、
「ノックスの十戒」
などと言われるものや、
「バンダインの二十則」
と呼ばれるのがあり、それが、
「探偵小説における、タブーの列挙」
といってもいいだろう。
そんな探偵小説における、
「戒律のようなもの」
というものが存在する時点で、
「トリックというものが出尽くした」
といっても過言ではないだろう。
探偵小説というものが、どのような時代背景によるものなのかということを考えると「本場イギリスと日本とでは、差がありすぎる」
ということであったり、密室殺人などでは、
「日本家屋では、密室トリックは難しい」
と言われていたが、それに特化したものもある。
そもそも密室トリックというのは、基本的には、
「針と糸などの機械トリックで、いかに、大げさにまとめ上げるか?」
ということが問題なのだ。
そんな中で、
「密室トリックという考え方」
というものは、
「他のトリックと併用して使う」
といってもいいだろう。
例えば、アリバイトリックのような形で、
「そこが密室になったことで、誰かのアリバイが成立した」
と考えた時、その人が、本当に犯人であれば、
「密室が成立したこと自体が矛盾であり、そうなると、誰か登場人物の誰かを、抹殺するということも、ありえないわけではない」
ということになるだろう。
つまりは、
「密室トリック」
というのは、
「入らなければ、出られない」
という個室というところの本質を考えれば分かることである。
だから、ここで、一人の人間を抹殺するだけではなく、抹殺したことで、辻褄が合わなくなった分、誰かをその話中に、登場させるということであり、
「ただ、殺されるだけのためのキャラクター」
という存在だってありえることである。
それを考えると、
「密室トリック」
というものは、針と糸の機械トリックを使うとしても、
「プラスになる人物」
と、
「マイナスになる人物」
というものの狭間で、
「プラスマイナス0」
というものになる。
この発想は、数学的な発想というよりも、算数的な発想といってもいいだろうが、算数というのは、考え方によれば、数学よりも難しい。
小学生の頃にあった、