小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

輪廻対称

INDEX|2ページ/17ページ|

次のページ前のページ
 

 というものがあり、
「いかにも、戦争の基礎を築いた時代だ」
 といえるのだろうか。
 しかも、戦争になると、誰もが、
「戦の戦法であったり、軍師というものが生まれてきたり」
 などと、特に戦国時代などは、群雄割拠と呼ばれる時代であるだけに、そんな時代においては、隣国との間に、結界のようなものがあり、基本的な情報のやり取りは行われていない。
 何といっても、カメラがあるわけではないので、
「相手国がどのような戦法でうやってきたか?」
 ということは、知る由もないだろう。
 さらに、不思議なのは、
「戦になってから、よく敵が分かるものだ」
 ということで、いわゆる、
「敵味方の判別」
 という意味で、カオスな中に、兵士が混乱せずに、相手を倒すことができるのに、
「旗」
 というものの存在が大きいだろう。
「自軍の兵士には、特に足軽などの、10人に1人くらいは、背中に旗を背負っている」
 という状態であろう。
 しかし、戦になれば、
「誰が敵の大将か?」
 あるいは、
「大将でなくとも、敵の有力家臣なのか?」
 ということがよくわかるというものである。
「本陣に座っていて、決まったこの場所に座っている人が、大将だ」
 ということが分かっていれば、本陣で、戦評定を行っている時であれば、分かるというものである。
 もっといえば、
「自軍の戦評定に出ている人であれば、分かるということで、ある程度の有力武将であれば、分かる」
 ということになるであろう。
 敵の有力家臣や、大将を討ち取って、首を持ち帰れば、その後の、論功行賞というものの査定となるものとして、
「首実検」
 というものが行われる。
 これは、
「どの武将の、いわゆる、どれだけの武将かということが分かれば、そのランクによって、論功行賞が決まる」
 ということで、
「大将の首」
 というものを取ったりすれば、それだけで、大名でもなかった男が、
「城持ちの大名」
 ということも言えるということになるかも知れない。
 それを考えると、
「首実検」
 というのは、結構大切なもので、ただ一つ気になるのは、
「首実検」
 などとする武将や大将は、
「一歩間違えれば、自分の身に起こっていたことだ」
 と感じて、恐怖に駆られるようなことはないのだろうか?
 と感じるのだった。
 そんな戦場において、
「相手の顔が、よく分かるな?」
 ということと、もう一つ言えば、
「戦のやり方や、戦術、さらには、相手の大将の性格など。よく分析できているな?」
 ということであった。
 確かに、戦をしょっちゅう行っている武将であれば、ウワサガいろいろ飛び交うこともあるだろうが、戦術にしても、
「テレビ、ラジオ、新聞などの、今の時代でいうところの、インフラがまったくそろっていないのに、よく分かるな?」
 ということである。
 これは、もっといえば、時代劇などを見ていれば、
「どうして、皆分かるのか?」
 ということが、多すぎる気がする。
 というのは、例えば、水戸黄門などが一つの例になるのではないだろうか?
「印籠」
 というものを見ただけで、
「どうして、水戸光圀だ」
 と分かるのかということだ。
 そもそもがお忍びの旅のはずで、確かに前週で、
「印籠」
 を出して、悪代官を懲らしめるなどという所業をしているのだから、
「隣の藩にウワサくらいは」
 ということであろうが、さすがに、口止めくらいはするだろう。
 悪代官をやっつけるのを、基本的に、大衆の面前でやるわけでもなく、たいていは、料亭か、代官の屋敷でのことであろう。それを、一般庶民が知るわけもない。それなのに、
「黄門様が、世直し旅をしておられる」
 などという隠密の旅がわかるわけはないのだ。
 ということは、
「葵のご紋」
 ということが分かり、それが、
「徳川将軍家」
 のものだということは分かったとしても、
「じゃあ、徳川将軍家の誰の印籠であろう?」
 ということが分かるはずなどないだろう。
 それを考えると、
「普通分かるはずのない黄門様だってよく分かるものだ」
 ということである。
 それに、
「水戸のご老公」
 ということは分かっていても、
「黄門様」
 などという言葉を、武士なら分かるが、商人や、百姓などに至るまで、
「水戸のご老公」
 というものが、
「水戸黄門」
 だということをどうして知っているのだろうということである。
 それを考えると、
「水戸黄門」
 というのは、
「テレビや、小説の中の世界でしかない」
 ということである。
 実際に、水戸光圀は、
「諸国漫遊」
 などしていない。
 あくまでも、
「大日本史」
 という歴史書を編纂している人だったので、それの執筆だけで、水戸から離れるなどありえないはずである。
 それを思うと、江戸時代の洒落本などと言われるものが流行った時代に、面白おかしく考えられたものではないだろうか?
「水戸黄門」
 と同じような時代の、いわゆる、
「時代小説」
 として有名なものとして、
「遠山の金さん」
 なるお話がある。
 こちらになると、さらにおかしなところが多すぎるといってもいいだろう。
 まずは、何といっても、
「町奉行である、遠山金四郎が、そんなに市中に出ていってもいいのだろうか?」
 ということである。
 いくら、
「天下泰平の世」
 といっても、それは、
「戦というものがない」
 というだけで、暗殺や、誘拐などがないわけではない。
 今でいえば、
「警視総監が、警備をつけずに、昼の日中に、街中を
「市中見回り」
 と称して、出かけることが果たして可能だろうか?
 ということである。
 さらにもっとひどいドラマになると、
「実在の将軍が、町人に扮して、江戸城を抜け出し、街火消しの棟梁と仲良くなり、居候風情を演じている」
 という信じられないものもあるくらいである。
 それを考えると、まだ、
「遠山の金さん」
 というのは、まだマシだといってもいいかも知れない。
 そんな江戸の街に繰り出して、金さんは、
「毎回、悪代官などに出くわす」
 という、
「実に都合のいい話」
 が出来上がるわけである。
 しかも、この話の突飛なところは、殺陣シーンなどにおいて、斬り合いを行っている際に、金さんが、肩をはだけると、そこにあるのは、
「桜吹雪」
 と呼ばれる、背中の入れ墨というのを見せるということだった。
 そして、お白洲の場で、悪人たちが、しらを切っていると、そこに金さんが、業を煮やして、
「お前たちは、これを見忘れたとは言わせないぜ」
 ということで、肩はだけて、入れ墨を見せることで、
「参りました」
 ということになるわけであるが、そもそも、
「誰も、金さんの顔を覚えていないというのも、おかしなことではないだろうか?」
 ということだ。
「まさか、奉行が遊び人を演じているとは」
 と誰もが思っているからだろうが、そんな悪党が想像もつかないくらいなのだから、この設定に無理があることを誰も感じなかったのだろうか?
 それとも、
「洒落本だから許される」
 ということであろうか。
 さらに、一番も問題は、
「町奉行たるものが、入れ墨などしていいのだろうか?」
作品名:輪廻対称 作家名:森本晃次