輪廻対称
というものがあり、
「いかにも、戦争の基礎を築いた時代だ」
といえるのだろうか。
しかも、戦争になると、誰もが、
「戦の戦法であったり、軍師というものが生まれてきたり」
などと、特に戦国時代などは、群雄割拠と呼ばれる時代であるだけに、そんな時代においては、隣国との間に、結界のようなものがあり、基本的な情報のやり取りは行われていない。
何といっても、カメラがあるわけではないので、
「相手国がどのような戦法でうやってきたか?」
ということは、知る由もないだろう。
さらに、不思議なのは、
「戦になってから、よく敵が分かるものだ」
ということで、いわゆる、
「敵味方の判別」
という意味で、カオスな中に、兵士が混乱せずに、相手を倒すことができるのに、
「旗」
というものの存在が大きいだろう。
「自軍の兵士には、特に足軽などの、10人に1人くらいは、背中に旗を背負っている」
という状態であろう。
しかし、戦になれば、
「誰が敵の大将か?」
あるいは、
「大将でなくとも、敵の有力家臣なのか?」
ということがよくわかるというものである。
「本陣に座っていて、決まったこの場所に座っている人が、大将だ」
ということが分かっていれば、本陣で、戦評定を行っている時であれば、分かるというものである。
もっといえば、
「自軍の戦評定に出ている人であれば、分かるということで、ある程度の有力武将であれば、分かる」
ということになるであろう。
敵の有力家臣や、大将を討ち取って、首を持ち帰れば、その後の、論功行賞というものの査定となるものとして、
「首実検」
というものが行われる。
これは、
「どの武将の、いわゆる、どれだけの武将かということが分かれば、そのランクによって、論功行賞が決まる」
ということで、
「大将の首」
というものを取ったりすれば、それだけで、大名でもなかった男が、
「城持ちの大名」
ということも言えるということになるかも知れない。
それを考えると、
「首実検」
というのは、結構大切なもので、ただ一つ気になるのは、
「首実検」
などとする武将や大将は、
「一歩間違えれば、自分の身に起こっていたことだ」
と感じて、恐怖に駆られるようなことはないのだろうか?
と感じるのだった。
そんな戦場において、
「相手の顔が、よく分かるな?」
ということと、もう一つ言えば、
「戦のやり方や、戦術、さらには、相手の大将の性格など。よく分析できているな?」
ということであった。
確かに、戦をしょっちゅう行っている武将であれば、ウワサガいろいろ飛び交うこともあるだろうが、戦術にしても、
「テレビ、ラジオ、新聞などの、今の時代でいうところの、インフラがまったくそろっていないのに、よく分かるな?」
ということである。
これは、もっといえば、時代劇などを見ていれば、
「どうして、皆分かるのか?」
ということが、多すぎる気がする。
というのは、例えば、水戸黄門などが一つの例になるのではないだろうか?
「印籠」
というものを見ただけで、
「どうして、水戸光圀だ」
と分かるのかということだ。
そもそもがお忍びの旅のはずで、確かに前週で、
「印籠」
を出して、悪代官を懲らしめるなどという所業をしているのだから、
「隣の藩にウワサくらいは」
ということであろうが、さすがに、口止めくらいはするだろう。
悪代官をやっつけるのを、基本的に、大衆の面前でやるわけでもなく、たいていは、料亭か、代官の屋敷でのことであろう。それを、一般庶民が知るわけもない。それなのに、
「黄門様が、世直し旅をしておられる」
などという隠密の旅がわかるわけはないのだ。
ということは、
「葵のご紋」
ということが分かり、それが、
「徳川将軍家」
のものだということは分かったとしても、
「じゃあ、徳川将軍家の誰の印籠であろう?」
ということが分かるはずなどないだろう。
それを考えると、
「普通分かるはずのない黄門様だってよく分かるものだ」
ということである。
それに、
「水戸のご老公」
ということは分かっていても、
「黄門様」
などという言葉を、武士なら分かるが、商人や、百姓などに至るまで、
「水戸のご老公」
というものが、
「水戸黄門」
だということをどうして知っているのだろうということである。
それを考えると、
「水戸黄門」
というのは、
「テレビや、小説の中の世界でしかない」
ということである。
実際に、水戸光圀は、
「諸国漫遊」
などしていない。
あくまでも、
「大日本史」
という歴史書を編纂している人だったので、それの執筆だけで、水戸から離れるなどありえないはずである。
それを思うと、江戸時代の洒落本などと言われるものが流行った時代に、面白おかしく考えられたものではないだろうか?
「水戸黄門」
と同じような時代の、いわゆる、
「時代小説」
として有名なものとして、
「遠山の金さん」
なるお話がある。
こちらになると、さらにおかしなところが多すぎるといってもいいだろう。
まずは、何といっても、
「町奉行である、遠山金四郎が、そんなに市中に出ていってもいいのだろうか?」
ということである。
いくら、
「天下泰平の世」
といっても、それは、
「戦というものがない」
というだけで、暗殺や、誘拐などがないわけではない。
今でいえば、
「警視総監が、警備をつけずに、昼の日中に、街中を
「市中見回り」
と称して、出かけることが果たして可能だろうか?
ということである。
さらにもっとひどいドラマになると、
「実在の将軍が、町人に扮して、江戸城を抜け出し、街火消しの棟梁と仲良くなり、居候風情を演じている」
という信じられないものもあるくらいである。
それを考えると、まだ、
「遠山の金さん」
というのは、まだマシだといってもいいかも知れない。
そんな江戸の街に繰り出して、金さんは、
「毎回、悪代官などに出くわす」
という、
「実に都合のいい話」
が出来上がるわけである。
しかも、この話の突飛なところは、殺陣シーンなどにおいて、斬り合いを行っている際に、金さんが、肩をはだけると、そこにあるのは、
「桜吹雪」
と呼ばれる、背中の入れ墨というのを見せるということだった。
そして、お白洲の場で、悪人たちが、しらを切っていると、そこに金さんが、業を煮やして、
「お前たちは、これを見忘れたとは言わせないぜ」
ということで、肩はだけて、入れ墨を見せることで、
「参りました」
ということになるわけであるが、そもそも、
「誰も、金さんの顔を覚えていないというのも、おかしなことではないだろうか?」
ということだ。
「まさか、奉行が遊び人を演じているとは」
と誰もが思っているからだろうが、そんな悪党が想像もつかないくらいなのだから、この設定に無理があることを誰も感じなかったのだろうか?
それとも、
「洒落本だから許される」
ということであろうか。
さらに、一番も問題は、
「町奉行たるものが、入れ墨などしていいのだろうか?」