輪廻対称
「完全犯罪」
なのである。
なぜかというと、
「一番怪しまれるであろう犯人には、
「完璧なアリバイ」
というものを作るからである。
そして、実行犯は、
「被害者と、まったく接点のない人間なのだから、疑われることもない」
ということである。
疑われるはずの人間に、完璧なアリバイがあり、実行犯は、どこからも、捜査線上に浮かんでこないからである。
ただ、これも、
「理論上」
ということであり、なぜなら、実際に被害者が殺される場面が、防犯カメラや、今であれば、ドライブレコーダーに映っていないとも限らないのだ。
実際に、今であれば、
「犯行が不可能だ」
と呼ばれるものは結構ある、
「アリバイトリック」
「死体損壊トリック」
などがそれであり、
「アリバイトリック」
というのは、今書いたような、
「防犯カメラ」
「ドライブレコーダー」
などが、証拠となって立ちふさがるからである。
また、死体損壊トリックにしても、いくら死体を傷つけていたとしても、被害者に心当たりがあれば、
「DNA鑑定を使って、ハッキリさせることもできる」
というものであった。
だから、
「科学や医学の発展が、今の時代の完全犯罪と、限りなくゼロに近づけているのかも知れない」
ただ、この発想も、前述のように、
「無限性のあるもの」
であり、しかも、
「絶対にゼロにはならない」
というものであるのだ。
それを考えると、
無限であったり、
「限りなくゼロに近づく」
という発想も、
「犯罪にも結び付いてくる」
ということになる。
さらに、
「限りなくゼロに近い」
という発想は。もう一つの仮説を作り上げることができる。
それはどういうことなのかというと、
「限りなあくゼロに近い」
ということは、
「ゼロを否定している」
ということでもあり、限りなく近いというだけで、ゼロと誤認してしまうところで、どこかに結界のようなもおのがあることで、それが、
「二つを隔てているのかも知れない」
といえるだろう。
そういう意味で、
「真ん中に媒体があることで、結界のようなものがある」
と考えると、それは、鏡という発想が生まれてくる。
そう、鏡というと、
「合わせ鏡」
がまさにそうではないか。
しかも、この話で、
「合わせ鏡」
というのは、その発想が当然のようみ結びついてくる。
それは、まるで、
「一周回って戻ってきた」
ということであり、その発想が、他のことにも言えるもかも知れない。
それを考えると、
鏡というのは、何か恐ろしさを感じさせる」
ということである。
昔から童話などに出てくる鏡としては、
「魔女のおばあさん」
というのが、鏡の精に向かって、
「この世で、一番美しいのは誰?」
と聞いて、本来であれば、自分でなければいけないのに、鏡が正直なのかいじわるなのか、他の女性を名指しした。
しかし。それは、嫉妬と妬みを生むもので、その人は、
「命の危険に晒される」
ということになるのだ。
命の危険に晒されるということは、ひょっとすると、
「鏡の精」
というものが、本当は、
「その女性に恨みがあったのかも知れない」
そもそも鏡の精というのが、
「その鏡の中だけに宿っているとは限らないのではないだろうか」
というのは、
「女性に対して恨みがあるというのは、よく分かる。女性の方が鏡を見る可能性は高いのであり、鏡の精が、男であれば、相手の女性に恋をするということだってあるのではないだろうか?」
それを考えると、
「私たちは、鏡の精なんかに恋はしないわよ。どんなに格好よくても、表に出てくることってないでしょう?」
ということであった。
もし、それを言われたとすれば、鏡の精が、女性不振に陥って、特にきれいなあ女性であれば、恨みに思って。
「心にもないこと」
を口走ったとしても、無理もないことであろう。
だから、その名指しされた女性を、鏡の精は好きになって、告白したにも関わらず、手厳しくはねつけられたのだとすれば、恨みに思うというのも、当然のことなのかも知れない。 それを考えると、
「鏡の精」
といっても、人間であれば、
「聖人君子」
ということもないだろう。
つまりは、鏡の精というものがいかに。考えるかということで、そのお話の中での、
「正義が悪」
に、あるいは、
「悪が正義にもなる」
というものである。
それが一人の人間の中に共存しているのであれば、
「ジキル博士とハイド氏」
というような、
「二重人格」
いや、
「多重人格性」
というものを醸し出すのであろうが、この場合であれば、
「二重人格」
というものに、限定してもいいだろう。
それが、
「性格による、双極性」
といってもいいのではないだろうか?
「双極性」
というものがどのようなものかというと、
「ちょうど、波のようになったカーブのその両端にあるようなもの」
といってもいいだろう、
そして、それが、いわゆる、
「バイオリズムのバーブ」
と似ているのだろう。
バイオリズムというと、確か3本の線のようなもおのが、少しずつずれていて、それが重なる時というのは、
「あまりいいことがないといわれる時」
ではなかっただろうか?
さらに、これはアニメの世界での空想物語なのかも知れないが、
「ワープというものがあって、それが、波になって、蛇行しているものを、
「蛇行した道を通る」
のではなく、
「点から点に飛び移る」
というもので、
「時空を飛び越える」
というものだということであった。
それを考えると、
「時空の歪みであったり、時空の繰り返しなどという発想は、まんざらありえないものだ」
とは言えないものであろう。
そんな、カーブを描く時、プラスとマイナスで、最大限に行ける場所というのは、実際にはなく、逆にいえば、
「このカーブは無限に続くものだ」
と考えれば、
「絶えず変わらない」
といってもいいだろう。
それこそ、
「人間の呼吸は止まってしまえば、その瞬間に息絶えてしまう」
ということと同じことになるであろう。
凍級が止まって死んでしまうのは、人間だけではない。動物だって、植物だって呼吸をするのだ。
ただ、植物の場合は、
「光合成」
もするので、
「プラスマイナスゼロ」
といってもいいかも知れない。
何しろ、
「光合成というものは、二酸化炭素を吸って、酸素を吐き出すものだ」
ということだからである。
結局。
「呼吸と光合成で、プラマイゼロだ」
といえるのではないだろうか?
そんな光合成をする植物が、吸い込むものと吐き出すもの。例えば酸素を取れば、同じ量なのだろうか?
正直、よくは分からない。
だが、なるべくなら。
「吐き出す方が多い方がいい」
と思うのは、呼吸で、酸素を吸い込むからであろうか。
それを考えると、
「曲線カーブのグラフにおける、上限と下限の直線は、やはり、プラマイゼロになるとすると、最後には同じところにおさまることになる」
といえるのではないだろうか。