輪廻対称
のように、最後まで行っても、決してゼロにならない。
もっといえば、
「ゼロにならない」
というわけではなく、ゼロに近づくということが、
「いかに無限であるか?」
ということを証明しているともいえるだろう。
これは、もう一ついえば、
「交わることのない平行線」
という考えと同じなのではないだろうか?
「交わらないということと、ゼロにならない」
ということを同じだとすれば、平行線は、
「その距離が近づくことはないから、ゼロになるわけはない」
ということであり、合わせ鏡などは、
「普通に小さくなっているが、無限であるがゆえに、ゼロになることはない」
という意味で、同じことだといえるのであろう。
そんなことを考えていると、
「マトリョシカ人形」
で考えると分かりやすいかも知れないなと考えるのであった。
ただ、この鎖国に宣教師に対しての、
「メリットとデメリットのバランス」
というのは、
「交わることのない平行線」
というものに近い気がする。
だからこそ、その方針を決めるのは、藩主であり、それぞれの藩で足並みが揃わないと、幕藩政治が成り立たなくなってくる。
特に
「二代将軍秀忠」
さらには、
「三代将軍家光」
の時代というのは、
「幕藩政治の基礎を作る」
という意味で、元々、豊臣恩顧の大名の取りつぶしを目指し、最終的には、三河恩顧の、本多正純であったり、家光に至っては、自分の弟でもある、
「徳川忠長」
まで改易させ。さらには、切腹までさせているのである。
そこまでの、急速な改易というのは、
「幕府には逆らえない」
ということを示しているのであり。そんな状態において。
「幕府に隠れて貿易をしよう」
というのは、かなりのリスクがあるというものだ。
しかも、幕府からすれば、
「宣教師を受け入れているということは、キリスト教の布教だけではなく貿易で利益を上げようとしているのかも知れない」
と考える。
そうなると、
「金を儲けて、幕府を倒そう」
ともくろんでいるとすれば、
「憂慮に耐えない」
ということで、
「キリスト教の布教」
と、
「貿易で利益」
というのを、藩主は、
「メリットとデメリット」
と考えていたが、幕府側は、
「幕府にとって、デメリットでしかない」
と考えているのだ。
ということは、幕府がとる対策としては、
「鎖国を行い、宣教師を締め出し、キリスト教の布教を大々的に取り締まり、その一方で、貿易を幕府が独占する」
という、一石二鳥を狙ったのである。
だから、幕府が貿易を行う国は、基本的にオランダ一国である。
もっとも、一部で、清国であったり、琉球であったりと、
「すべてがオランダだけ」
ということもなかったのである。
ただ、このような鎖国制度は、結果として、
「日本の植民地化」
ということにならないようになっていて、
「結果として、
「伝染病の流行りを、水際対策で、だいぶ抑えられたのかも知れない」
といえるだろうか。
ただ、それでも、長崎の出島からだけでも、かなりが入ってきていて、流行り出すとあっという間だった。
ということであり、
「考えてみると、鎖国政策というのは、本当に間違っていなかった」
といってもいいのではないだろうか?
学校教育などでは、
「鎖国政策」
というのは、きっと、
「悪いことだ」
ということになっているだろう。
何といっても、その鎖国が始まった時代くらいに起こったのが、
「島原の乱」
だったのだ。
「キリスト教を信仰する、天草四郎時貞を中心とした連中が、ちょうど、領主に搾取される農民の怒りによる、一気というものに、便乗したことから始まり。結局最後は、全員が皆殺しにあった」
ということで、ほとんどの日本人は、
「判官びいき」
ということで、
「島原の乱」
は、
「幕府側がひどい」
ということになった。
また、こちらも、そんなに年代が離れているわけではないが、いわゆる。
「赤穂浪士」
の、
「忠臣蔵」
という事件である。
こちらも、武士同士の争いであり、本来なら、
「喧嘩両成敗」
のはずなのに、浅野家だけが取りつぶされ、吉良家には、お咎めがなかった。
ということであった。
さすがに、赤穂浅野家の家臣たちは、怒りに満ちて、
「吉良家に討ち入る」
ということになったのだ。
当然のことながら、
「浪士たちは、処刑」
ということになるのだろうが、このあたりも、幕府のやり方に不満が募る原因であっただろう。
そういう意味で、鎖国政策というのは、
「キリスト教を締め出す」
ということだけではなく、
「民主制」
というものを、入ってこなくさせたということでの成果もあっただろう。
もっとも、
「民主革命」
というものは、
「幕府の鎖国政策」
というものよりも、もっと後になったから起こったことなので、
「偶然の産物」
ということであろう。
「伝染病の蔓延」
というのも、実際にはあったが、
「鎖国をしていなければ、もっともっと悲惨なことになったに違いない」
ということである。
何しろ教科書に、
「コレラなどの蔓延について、書かれていないのだから、そこまでひどくはなかったということであろう。悲惨なことになっているとすれば、教科書に載らないということはないはずだからだ」
ということであろう。
そんな時代における世の中というものは、
「鎖国政策」
のように、今まで、
「悪いといわれてきたことであっても、それなりに、功を奏していることだってあるのではないか?」
と考えられてもいいだろう。
それをこれからどう考えるかと思えば、
「メリットとデメリットのバランスをしっかりと把握することが大切だ」
という、
「実に当たり前だ」
と考えられることによるのではないだろうか?
繰り返しの法則
合わせ鏡」
や、
「マトリョシカ人形」
のようなものが、
「どんどんと小さくなっていく」
という、
「限りなくゼロに近い」
ということで、
「無限」
という発想があるということを、前章で話をしたのだが、それだけのことではないようだった。
最近、考えることとして、前述の、
「加算法」
と
「減算法」
というものが、その発想になってくるのであるが、最初の章では、
「将棋と囲碁」
の発想で見てきた。
しかし、これを、もし、
「犯罪であったり、殺人トリックというものとを組み合わせたら、どうなるだろうか?」
ということも考えたりするのだ。
それが、
「交換殺人を中心とした。種々のトリックといえるのだ」
元々、
「交換殺人」
というのは、殺人トリックではなく、
「殺人のシチュエーション」
ということである。
だから、
「何かのトリックと組み合わせないと、成立しない」
ということを考える人がいるかも知れない。
ただ、交換殺人というのは、普通に考えて、
「犯行というものをカモフラージュするトリックなどというものは、なくてもいい」
といえるであろう。
というもは、そもそも、心理的な部分以外では、理論的には、