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「悪魔の紋章」という都市伝説

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 登山であったり、何かのスポーツであったら、一人ということはないと思い、可能性としては、
「一人旅が一番だ」
 と感じたのも、無理もないことであった。
 声をかけると、案の定、一瞬たじろいだが、すぐに我に返った。普通であれば、虚勢などが少し見えたり、脅かされたことで、嫌な表情が少し滲んできてもよさそうだが、そんな雰囲気はなかったのだ」
 彼女と少し話をすると、雰囲気は冷静沈着に見えるが、それは、落ち着いているというよりも、暗さが目立つ感じだった。
 言い方は悪いが、
「何かにとりつかれているかのようだ」
 というのが、ちょうどいい表現かも知れない。
 だが、瀬戸口は、そんな女性に興味を抱いたのだ。自分は怖がりなところがあるので、そんな自分にはないところを持っている女性ということで、そこが気に入ったのだった。
 そもそも、彼女の何に、興味を惹かれたのかというと、
「暗い雰囲気なのに、嫌な気分にさせないところがある」
 というところで、それが、彼女の趣味趣向にあるということが分かったのだった。
 なぜなら、彼女と話をした時、まだ、瀬戸口はどこに行こうかということを決めていなかった。
 だから、
「T町に行きたい」
 と言われた時、ピンときたのだ。
 怖がりの瀬戸口の中には、
「T町」
 という選択肢はなかった。
「あんなところに行くくらいだったら、もっといいところはたくさんある」
 と思っていたからであって、意外な彼女の口から出てきた言葉に、
「やっぱり俺が怖がりだということを分かっていないんだな」
 と思ったがそうではなかった。
 こっちが、
「じゃあ、一緒に行こう」
 と言った瞬間、彼女は堰を切ったかのように、T町の自分なりに感じたいいところを口にするのだった。
 その時の彼女の変わりようは、それまでの暗い雰囲気が一気に明るくなった。それを聞いて瀬戸口は、
「なんだこれは?」
 と一瞬、たじろいだが、
「彼女って、二重人格だったんだ」
 と思えば納得がいった。
 誰だって、自分の得意な話になれば、我を忘れて、喋りまくるという性格を持っていることだろう。
「T町は僕も行ったことがないので、行ってみたいと思っていたんだ」
 と、半分ウソ、半分本当のことを言った。
「行ったことがないのは、本当」
 で、
「行きたいと思っていた」
 というのがウソである、
 しかし、それでも、ちゃんと文章が通じるというのは、実におかしなもので、それだけ、その二つは、
「表裏の関係にある」
 といってもいいだろう。
 これは、
「長所と短所」
 という考えと同じもので、
「長所と短所は紙一重だというが、まるで二重人格のそれぞれの性格のように普通であれば、まったく違うものだ」
 ということに似ているといってもいいだろう。
 それは、
「二重人格」
 と同じようなもので、決して、
「多重人格」
 ではない。
「お互いに、相対的な関係だ」
 ということは分かっていて。いわゆる、
「ジキルとハイド」
 の話を思い出す。
 この話は、ジキル博士が、自分の開発した薬を使って、自分の中にあるであろう、
「もう一人の自分」
 というものを、あぶりだすということであった。
 だから、ジキル博士は、自分でその薬を飲んだということは、。
「自分の中にもう一人の自分がいる」
 ということが、前提になっているのだ。
 ということが、博士が思っているのは、自分だけではなく、自分以外の人も全部に渡って、同じことが言えるという発想であった。
 そんなジキル博士の、
「自信」
 というのは、どこからきているのだろう、
「信じて疑わない」
 という気持ちがなければ、そんな簡単に自信が持てるわけはないはずだ。
 そんな二重人格の、
「代表例」
 といえる、
「ジキルとハイド」
 の話は、最初から、分かっていての、まるで出来レースのように思えた。
 誰もがそう感じているという核心部分をいかに、ごまかしながら、実際には、正反対だといっていいはずだが、言い切れない部分を、自分だからこそ、証明できるかのように考えるということだった。
「二重人格というものが、すべて、正反対のものだという根拠は、自分の中にあるものだから」
 ということだからだろう。
 同じ人間の中に、同じものが存在するわけはない。それを同じではないとするから、
「二重人格は、正反対の性格だ」
 といえるのだろう。
「1+1=2」
 という形にすべてがなっているのだとすると、小学生の時分からなかった理屈が、
「やっと今になって分かってくる」
 ということになるのだろう。
 それを考えると、
「人間というのは、数式で割り切れるような、単純なものなのかも知れない」
 と考えるのだった。
「もう一人の自分」
 というものの代表例として、
「ドッペルゲンガー」
 というものが考えられる
 これは、世の中には3人いると言われる、
「よく似た人」
 というわけではなく、本当に、
「もう一人の自分」
 ということであって、さらには、
「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来、死んでしまう」
 という伝説があるという。
 これこそ、一種の、
「都市伝説」
 ではないか?
 しかし、この話は現代の伝説ではなく、結構前から言われている。さらに、昔の著名人が、
「ドッペルゲンガーを見たことで、死んでしまった」
 という話も伝わっている。
「エイブラハム・リンカーン」
「芥川龍之介」
 などが、その代表的な例だと言われている。
 ドッペルゲンガーを、
「どうして見るのか?」
 ということに関しても、いろいろな謂れがある。
「同一時間、同一次元に存在している人間がいるのは、タイムパラドックスに違反しているということになるので、片方を殺しにくる」
 という考え方であったり、
「そもそも、ドッペルゲンガーというものを見るというのは、精神疾患によるものなので、死んでしまうというのは、ドッペルゲンガーを見たから死んだわけではなく。その精神疾患、つまり、脳の病気によって死んでしまうということが原因なのではないか?」
 ということであった。
 つまり、ドッペルゲンガーというものを、ハッキリとは分かっておらず、いろいろな説があるのだが、それに関しても、根拠たるものが、存在しての考え方であった。
 曖昧さはあるが、その中でも、
「理屈は通っている」
 という意味で、
「都市伝説」
 というほどのものではないということになるのではないだろうか?
 ただ、
「ドッペルゲンガー」
 という言葉は、詳しく内容を知っているかどうかにかかわらず、
「名前だけは知っていて、もう一人の自分を見ると死ぬ」
 ということだけは、知っているという人がほとんどであった。
 だから、この内容だけを聞けば、
「ああ、これは都市伝説なんだな」
 といえるが、考えられること、ほとんどすべてに、その理由が分かっているというのであれば、もはや、
「都市伝説ではない」
 といってもいいのかも知れない。
 そういう意味で、
「都市伝説に近い」
 というもので、こちらは、心理現象だといってもいいのだろうが、何かというと、それは、
「デジャブ」
 という現象である。