永遠の循環
「これほどマイナスに考えることはない」
と思っていたのも事実。
これは、子供の時だけではなく、就職してからすぐにも感じたことであった。
大学時代にも、友達はたくさんいたが、その間に、孤独を感じたことがないわけではなかった。
どんなに、まわりに人がいても、
「マイナスに考えるということから、逃れることはできないんだ」
ということを絶えず考えていた。
大学時代、友達が多かったが、
「絶えず、誰かがそばにいないと辛い」
ということが頭をもたげていたので、それが、孤独ということでなくとも、下手をすれば、
「夕方まで、友達と一緒にいて楽しかったのに、友達と別れたっ瞬間から、急に寂しさがこみあげてきて、気づけば、マイナス面ばかりを考えていた」
ということもあった。
「そんな、別にまた次の日になったら、友達に会えるじゃないか」
といって、こんな話をすれば、笑い飛ばされるだけのことになるのを分かっているのに、言わずにはおられないほとになるのだった。
確かにその人の言う通りで、そこまで、
「孤独」
というものが恐ろしいわけでもない。
むしろ、それが、孤独というものなのかということも怪しいもので、
「たった一日、いや、反日が我慢できないなんて、ただのわがままだ」
と言われるだろうが、本人にとっては、重大な問題だ。
重大な問題を、一言で、一刀両断に、茶化されると、
「やっぱり俺が悪いんだ」
という感覚になることであろう。
何が重大なのかということを、他のやつに分かるわけがない」
という意識がある、
だから、決して分かり合えるはずのない、
「交わることのない平行線である」
ということを、自分の方だけが分かっていて、相手には分からないと思うのであった。
しかし、これは逆に、
「相手もこの平行線の理屈は分かっているはずで、ただ、その相手が、こちらであるはずがない」
ということで、
「見ている線」
の方向や角度が違っているのだ。
「同じ物体を見ているのだから、同じに見えるはずだ」
というのは、その人の思い込みで、ひょっとすると、
「傲慢なのかも知れない」
と考える。
ただ、そう考えている場合は、決して傲慢ではなく、
「自分の考えは正しい」
として、相手に。無理矢理押し付けているということを分かっていないというのが、
「本当のわがままではないだろうか?」
それが、集団の中においては、
「マウントを取っている」
ということにもつながるものであり、
「今の世の中、コンプライアンスと言われるが、どこにそれがつながっているのか?」
ということを、考えているつもりで、実は。
「まったく違う、明後日の方向を向いている」
という自覚がないことで、
「平行線が交わらないのが、直線をお互いに描いているからだ」
という当たり前の理屈すら、分かっていないということになるのだろう。
確かに、
「ブレない気持ち」
という、一本筋が通った考え方というのは、学ぶべきものなのだろうが、マイナスに考えてしまうということが、孤独と同じだと思うのは、少し違っているのではないだろうか?
そんな孤独を感じている頃、その瞬間だけは、
「否定からなんでも考えが入っているように思っていた」
ついさっきまで、友達と一緒にいて、何も考えなくても、
「ただ、楽しい」
という感覚だったのだ。
それなのに、あっという間に、テンションが落ち込んで、一時間も経っていないのに、ここまで、自分を否定するようになるということを、自覚するに至って、そこで考えたのが、
「自分は、躁鬱なんじゃないか?」
ということであった、
躁鬱だと思うようになって、最初に思ったことは、
「目の前に見えていることが、違って見える」
ということで、目の前に煮えている同じ光景であっても、精神状態が違うと、見え方が違ってくるという考え方であった。
その根拠としては、
「身体の疲れ方が違っているからだ」
ということであった、
これは、時間帯で感じているものと似たところがあり、朝の時間帯であれば、爽快に思えることなのに、昼下がりはそうでもないのに、夕方になってくると、身体が急に動かないというような感覚になるのだった。
それが、小学生の低学年の頃の思い出に繋がるもので、小学生の低学年の頃は、学校から帰ってきて、友達と遊びにいく。子供なので、
「疲れ」
という感覚はあるのだが、疲れているということが、自分にどう影響するのか?
ということが分からない。
小学生の頃は、疲れるというのを当たり前とは感じない。疲れというよくわからないものが、自分を襲っているとは思うのだが、それが毎日のことであれば、
「いちいち気にしてのしょうがない」
という今であれば、
「諦めの境地」
という感覚が、自然と湧いてくるのであった。
「疲れ」
というものを意識するくせに、その疲れが、いいことなのか悪いことなのかを分かるすべもないくせに、そんな状態であきらめの境地を悟るというのは、それが中学生になった時、子供の頃に、意識的に感じていた感覚を、今度は、無意識に感じるようになったということで、どう考えればいいのかを、感じている気がしてくるのだった。
だから、
「夕方という時間帯には、疲れという枕詞がついてきて、一緒に条件反射のように、空腹感が一緒に湧いてくる」
ということであった。
その時に匂ってくる香りとしては、
「ハンバーグが焼ける匂い」
であった。
だから、
「ハンバーグの匂いを感じると、空腹感が、最高潮になる」
というもので、それが、
「条件反射に繋がる」
という、一種の、輪廻のような感覚に襲われるのだ。
もちろん、小学生や中学生で、輪廻などという言葉を知るはずもなく、漠然と、
「循環」
なのだろうと思っていた。
それも間違いではない。普通に正解なのだが、
「だったら、輪廻と循環とは、何が違うのだ?」
と、まるで、段階を踏んで、物事を考えるようになってくる。
自分が、
「躁鬱症なのではないか?」
と考えるようになった時、
「何が躁で、何が鬱なのか?」
ということを考えること自体が、何か無意味なことではないか?
とも考えるようになっていたのだ。
中学生の頃は、
「いじめられっ子予備軍」
であった。
といっても。
「いじめられっ子予備軍」
というのは、たくさんいた。
「下手をすると、いじめっ子といじめられっ子以外は、すべて予備軍」
といってもいい。
よほどの危ない人が、本当の予備軍といってもいいのだろうが、実際には、
「いじめっ子でもいじめられっ子でもないという第三者的な人間は、いじめっ子と同じだ」
といってもいい、
逆に、
「よほどの危ない人というのは、あくまでも、口外まではしていないが、いじめっ子というものを、許せないという気持ちでいる人間で、いじめっ子である人も、いじめられっ子である人にも、感情移入はするかも知れないが、少なくとも、肩を持つということはない」
ということである。
それが、迫水だったのだ、
どうして、自分が、危ない方の予備軍なのかということを感じているのかというと、