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永遠の循環

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「自分が、勧善懲悪だ」
 と感じているからである。
 勧善懲悪」
 というのは、人間関係そのものに感化されるもので、人間そのものではない。
 だから、自分が、
「善だとか、悪だとか決めた」
 というものが、そのすべてである・
 という考え方である。
 もっといえば、
「途中で、考え方が変わることもない」
 ということで、
「考え方を変えるくらいであれば、自分にとっての否定というものが、人に対してではないということを自分で証明できなければいけない」
 と思っているということである。
 というのも、
「自分がいじめっ子でも、いじめられっ子でもない」
 ということは、基本は、
「中立でなければいけない」
 というのが、本当の理屈であろう。
 しかし、世間では、
「いじめというののを目撃して、それを黙って見ているふりをしている人は、いじめっ子と同じことだ」
 と言われるが、それは、本当のことであろうか?
 あくまでも、
「いじめっ子が悪い」
「いじめられっ子は、正義だ」
 という凝り固まった考えによるものではないだろうか?
 確かに、いじめは褒められたことではないが、絶対に、何かの理由があるはずだ。
 それを吟味することもなく、
「苛めイコール悪」
 という考えは、
「勧善懲悪」
 というものの、悪い部分ではないかといえるのではないか?
 そんなことを考えていると、
「勧善懲悪」
 という言葉自体が、猜疑心の強いものに感じられ、正義を振りかざすための、大義名分に使われてしまうといえないだろうか。
「勝てば官軍」
 という言葉があるが、大義名分があり、その後ろに、
「勧善懲悪」
 がついていれば、それこそ、
「錦の御旗」
 を獲得したのと同じ、大義名分となるのだろう。
「人から狙われている」
 という感覚は、
一種の、
「被害妄想」
 というものと、
「猜疑心の強さ」
 などからくるものであろうか?
 たいていの人は、今までに、誰かに、
「自分が狙われている」
 あるいは、
「恨まれているのではないだろうか?」
 ということを、一度でも思ったことがないというような人はいないだろう、
 ほとんどの人は、
「自分が誰かに恨まれている」
 という発想を持っているのが普通だと思っているので、逆に、そう思うことで、いきなり、自分が人から恨まれているということでショックを受けないようにするという、一種の防衛本能のようなものを抱くようになったのかも知れない、
 人間というのは、
「下等動物から進化していき、次第に高等動物になった」
 ということで、地球上の生物の中で、
「選ばれた種族だ」
 と思っているのかも知れない。
 だから、人間は、
「今度は、その発想を人間世界という範囲に絞って考えるようになると、動物界でいうところの人間というのが、今度は、人間界の中での、種族ということになるのではないだろうか?」
 考えてみれば、差別問題であったり、奴隷制度というのは、
「太古の昔からあった」
 ということではないか。
 特に、
「十戒」
 で有名な、モーゼの話などで、この話は、エジプト王である、
「ファラオ」
 になるべき人間である、モーセが、実は、エジプト王朝で、奴隷として扱われているヘブライ人であり、神の下で、自分が率先し、奴隷解放を行うという使命があることを、神から教えられ、
「奴隷解放」
 を行うという話であった。
 だから、元々奴隷であった人たちとの葛藤の中で、行う奴隷解放というところが、物語性があり、
「聖書の中の物語」
 と比較しても、引けを取らない話になるということであった。
 だが、そもそも、奴隷という発想は、
「自分が、選ばれた人間」
 という独裁的な発想であり、これが個人であれば、
「独裁者」
 となり、これは民族的なものだと考えれば、
「奴隷制度」
 という発想になるだろう。
 あくまでも、個人といっても、一人で何もできるはずもなく、民衆を巻き込むという意味での、
「ナチスの台頭」
 というのは、演説などによって、洗脳したりするということに長けていることが、
「独裁者」
 たりえることであり、それが自分の存在意義だと思うことで、独裁国家ができあがるというのは、これは人間だけではなく、他の動物にもありえることで、それを思うと、
「本能のたまもの」
 といってもいいのではないだろうか?
「いじめられっ子でもなく、いじめっ子でもない」
 ただ、そんな自分が嫌だったというのは、
「そのどちらにも、ジレンマというものを感じていたからではないだろうか?」
 ジレンマというのは、いわゆる、
「板挟み」
 ということで、言葉とすれば、
「三つの関係性」
 という意味で、他に考えられることとして、
「三すくみ」
 というものと、
「三つ巴」
 というものとに分かれるといってもいいだろう。
「三すくみ」
 というと、それぞれに関係しあう、優劣関係がしっかりしていて、それぞれの相手に、優劣を持っていることで、
「お互いに動くことのできない」
 という、
「抑止力」
 になっているというものである。
「三つ巴」
 というのは、その三つが、優劣をつけることのできないほどに、実力が均衡していて、三つの角をしっかりと形成している場合をいう。
 しかし、スポーツなどで、必ず、優劣をつけなければいけない時、
「優勝決定戦」
 という形で競う場合に、
「巴戦」
 というものを行うのだ。
 戦う順番というものを、くじであったり、じゃんけんなどで決めるわけだが、ちなみにいえば、そのじゃんけんは、三すくみの一つである。
 そして、決まった形で、競い合うようになるわけだが、結果として、
「先に、2連勝した人間が、優勝ということになる」
 ということだ。
 これは、
「巴戦での決まり事」
 ということであり、理屈でもその通りのことだということになるのである。
 その方向から考えれば、
「三すくみ」
 というのも、
「決着」
 という形でつけようとするならば、結論は決まっている・
 というのは、
「先に動いた方が負けだ」
 ということである。
「三つ巴」
 のように、優劣が決まっていない均衡している場合は、
「先に2連勝した方が勝ち」
 ということで、勝ちが決定する。
 しかし、
「三すくみ」
 のように、優劣が決まっていて、そのせいで、
「働いている抑止力」
 に対抗するには、先に動いた方が負けという、一種の、減算法という発想になるのであった。
 それでは、
「ジレンマというのは、どうであろう」
 どれか一つに焦点を当て、左右からの力の均衡やバランスを考えるというのが、
「三つの関係性」
 としての、
「ジレンマ」
 というものではないだろうか?
 ジレンマというのは、
「自分の左右に、ほぼ同一の力が働いていて、その二つの力が、自分に対して、異なる力を加えることで、自分が、どうしていいのか分からなくなる」
 というような関係ではないのだろうか?
「同一」
 という言葉を使ったが、
「まったく同じような、均衡を保つ」
 というような意味ではないのかも知れない。
「距離感」
 であったり、
「力の強さ」
作品名:永遠の循環 作家名:森本晃次