永遠の循環
「平家にあらずんば人にあらず」
という言葉を言ったと言われる、いわゆる、
「平家の天下」
だったという時代、この平野忠時という男が、
「平家の悪口」
を言ったり、陰謀を企むような人を取り締まるという意味で、
「禿(かむろ)」
と呼ばれる、少年たちを、京の街に放ったということである。
おかっぱ頭の、女の子なのか、男の子なのか分からない、年齢とすれば、小学生くらいの子供である。
その子たちは、戦災孤児であったり、親が病で死んだりして、天涯孤独となった子供で、それを平家が養う形で、平家のための、
「子供警察隊」
とでもいえばいいのか、
「子供を洗脳して、平家のための部隊に仕立てる」
という、今でいえば、大問題であるが、当時は、
「養ってもらえる」
ということで、
「飢え死にするよりはましだ」
ということだったのだろう。
洗脳されているので、感情もなければ、一切の、
「情」
というものがないということなのだろう。
そんな彼らに対して公家というのは、危機意識も欠如していて、自分たちよりも、下の連中に、
「何ができるか」
ということを思っていただろうから、ましてや、相手が子供だというっことであれば、平気で、悪口を言い合ったりしたものだ。
それを聞いていた禿が、平家に通報し、そこで、平家が、その公家を言及し、最後には、財産没収や島流しにするのだ。
さすがに、当時の平安京で、公家を処刑するというのは、できなかっただろうから、処刑まではできなかった。
それでも、
「平家の天下」
のために、禿と呼ばれる、
「平家専属の子供警備隊」
がいることで、京の治安は、守られるのであろうが、それはあくまでも、
「平家のための治安」
ということであり、その正体は、
「恐怖政治」
に他ならない。
恐怖政治が、世の中に蔓延っているというのは、時代としては、
「暗く陰湿な時代であり、先の見えないそんな時だったといってもいいだろう」
今の自粛警察も、禿と同じなのだろうか?
ただ、禿には、平家に洗脳されてのことであったが、
「自粛警察」
というのは、何かに洗脳されているのだろうか?
実に不思議な団体である。
そんな自粛警察というのは、
「トップがいるわけではない」
一種の、
「同士が集まった集団」
と言えばいいのか、言ってみれば、
「勧善懲悪な仲間」
が集まっているといってもいいだろう。
実は、迫水にも、
「俺にも、勧善懲悪なところはあるんだよな」
と思っていた。
ただ、そんな勧善懲悪というものが、いかに、他の人たちと考え方が違うのか?
ということを考えていた。
というのも、一つ言えるのは、
「人とつるむのがいやだ」
と思っていたからだ。
なぜかというと、
「勧善懲悪といっても、人それぞれで微妙に考え方が違っていて、それが同じ勧善懲悪の中であれば、表から見て、ちょっとした違いでしかなく、その違いが分からない世界であっても、その中に入ると、その見え方は、完全に違っているというものだ」
といえるのではないだろうか。
それを考えると、
「自分にとっての勧善懲悪は、同士にとっては、ただの悪でしかない」
という風に見えることもあるということであった。
それを考えると、
「自粛警察」
というものが、
「勧善懲悪だ」
と考えるのは、迫水にはできないことであった。
それを認めるとすれば、
「自分には、自粛警察というものはできない」
といってもいい、
ここでいう、今回のパンデミックにおける、
「自粛警察」
というものは、あくまでも、
「団体行動」
というものが主であり、個別に行動する人もいるが、その人まで、
「同じ自粛警察だ」
ということにはならないと思うのだった。
「個人であれば、ただの勧善懲悪であり、決して自粛警察というものではない」
と言い切ってもいいだろう。
つまりは、迫水は、
「俺は、勧善懲悪であり、自粛警察にはなりえない」
と思うのだった。
だから、ひょっとすると、同じような考えであっても、自粛警察としいぇ行動している人から見れば、迫水のような、ただの、
「勧善懲悪」
というタイプの人間に対しては、
「鬱陶しい」
と思う人もいれば、中には、
「恨めしい」
とまで思っているかも知れない。
「もし、私を狙っているような人がいるとするのであれば、考えられるのは、自粛警察の連中でしかありえない」
と思っていた。
実際に、なんとなく、
「狙われている」
と感じるようになったのは、
「自粛警察というものが現れた。世界的なパンデミックが起こってからだった」
と感じているのだった。
ジレンマの正体
迫水が、自分のことを、
「一匹狼」
だと思うようになったのは、ごく最近のことだった。
しかし、そう感じた時、
「実は、ずっと昔から、自分が一匹狼だったのだということを自覚していたのだ」
ということが分かっていたような気がする。
「分かっていた」
という表現をすると、まるで、
「一匹狼だということを前から自覚していた」
ということの方を認めたという感覚になり、これもおかしなもので。
「何かを考えた時、自分で理解すると、その時に、以前から分かっていたことだったと思う」
ということを感じることが往々にしてある。
それを、まるで、
「デジャブのようだ」
と感じることも珍しくもない。
デジャブだと思うと、その時に、デジャブで思い出したことの方が、実は新しく、そして、新鮮な感覚になるのだった。
そのおかげというか、そのせいというか、
「新しい感覚で、古い感覚を、覆いかぶせてしまう」
とおう感覚になってしまうと感じるのだった。
だから今回のように、
「昔から思っていたのが、正解だったように思うのは、ある意味、堂々巡りのようなものであり、いたちごっこのように感じる」
というのであった。
確かに、子供の頃から、
「一匹狼」
であったが、それはあくまでも、
「孤独である」
ということが、照れ臭いのか、それとも、悪いことだという自覚が強かったからなのか、その気持ちを否定しようとする自分がいるのであった。
その自分が、自分の過去の意識を否定しようとすることで、言葉を、
「一匹狼」
と言い換えることで、
「孤独」
という過去の思いを打ち切ろうとしているのかも知れない。
ただ、自分の中で、
「一匹狼」
と名乗ることで、
「孤独」
というマイナス面を補うことができるのだろうか。
時間が経っているだけに、
「マイナス面を補う」
だけでは足りない。
「補ってあまりある何かがなければいけない」
ということである。
それが何なのか、迫水には分かっていない。
そう、
「孤独で、一匹狼のこの俺に分からないのだから、他の人に分かるはずがない」
という自負のようなものがあったが、少なくとも、前述の理論だけは、間違っていないような気がする。
だから、
「一匹狼」
というものが、
「孤独」
というものを凌駕すると考えているのであった。
孤独な時というのは、