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永遠の循環

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 だから、自分では人畜無害だと思っていて、実際に女性に対しては、そのほとんどが、人畜無害であった。
 いや、そう思っているのは、迫水だけかも知れない。
 付き合う女性が、そのほとんどが、浮気や不倫だということを迫水は分かっている。だから、
「本当なら、相手から訴えられたり、恨まれるのは当たり前のことだ」
 ということで、普通なら手を出さないだろう、
 しかし、迫水の考え方は、
「来るものは拒まず」
 ということなので、皆受け入れる。
「自分は、女性の駆け込み寺だ」
 という意識が強く、
「そもそも、付き合っている男や、結婚している旦那に甲斐性ややさしさがないから、俺がその分を引き受けているんだ」
 と思うのだった。
 だから、その男たちに対して、
「申し訳ない」
 などという気持ちはこれっぽちもなかったのだ。
 そのくせ、一度に数人の女性を相手にしているとしても、それは、
「俺の人徳なんだ」
 というくらいに考えるのであった。
 それは、相手の男性に失礼なだけでなく、付き合っている女たちに対しても、失礼である。
 それぞれの女に、
「自分が、他の女たちと関係がある」
 ということは、無意識に隠していた。
「心の中にどこか、後ろめたさがあるというのか?」
 それとも、
「他の女に知られると面倒くさい」
 という、自己防衛的な本能が働くのか?
 なとということが考えられるのだ。
 とにかく、迫水は、
「面倒くさい」
 ということを極力避けるタイプだった。
 そのくせ、
「寄ってくる女たち」
 に対しては、まったく悪びれる気持ちがないことから、彼女たちと付き合うことに面倒くささは感じなかった。
 むしろ、
「人助け」
 と思っているから、余計に女が寄ってくるのかも知れない。
 久保田は、そのことを分かっていない。
 久保田でなくとも、なかなかわかるということはないだろう。それが男の方で分かるのであれば、迫水はもっと早く、女たちとのトラブルが表面化したことだろう。
 迫水の、
「女遍歴」
 というものがどういうものなのか?
 というと、
「自分で、分かっていないから、成功するんだ」
 ということであった。
 これが、もし、本人に、もう少し自覚があり、心の中で、余裕のようなものを持っていれば、この迫水の行為は、
「女遊び」
 と言われることになるのだろう。
 しかし、迫水自身は、
「遊びだ」
 とは思っていない。
 ただ、
「心に余裕があるから、女たちが寄ってくる」
 と思っていたのだが、どうもそうでもないようだ。
 迫水は、心の中で、
「彼女たちに余裕をもって接している」
 という意識はない。
「来る者は拒まず」
 という言葉そのもので、
「女たちがよければそれでいいんだ」
 ということで、
「女というものを、いかに自分が愛するということになるのか?」
 とここでいう
「愛する」
 というのは、肉体的なことであって、本来の精神的な、
「愛する」
 ということではないのだった。
「精神的に愛する」
 ということを、迫水は分かっていない。
 もっとも、
「女性を愛する」
 ということがどういうことなのか?
 そんなことこそ、
「面倒くさい」
 ことであり、お互いに、求めあっているなら、それがかなえられれば、それが、
「愛する」
 ということではないか?
 と思っていた。
「女遊び」
 をしている人に、
「女を愛する」
 という感情があったとしても。それは、
「身体を貪る感情」
 というものだと思っていて、それこそ、
「性欲による満足度」
 ではないかと思っているのだった。
 そういう意味で、
「かなり歪な恋愛」
 といってもいいだろう。
 そもそも、
「恋愛」
 などという言葉を使うこと自体、おかしなことではないだろうか。
 これは、恋愛ではなく、
「恋愛ゲーム」
 という感覚に、迫水の感情は近かっただろう。
 迫水は、ゲームも嫌いだった。
 それだけ、
「生粋の面倒くさがり」
 といってもいいかも知れない。
「ゲームの何が面白いんだ」
 という感覚があったのだが、それは、ゲームというものが、自分では、
「面倒くさい」
 と思っているわけではなく、まわりの人が、
「ゲームばかりしていてはダメ」
 という意識で、特に大人が見ているということに対して、自分が、
「いい子になっている」
 という感覚があったからだった。
 しかし、実際に、そんなことをいう大人だって、実は、通勤電車の中などで、結構していたりする。
 自分の学生時代にも、自分の親から言われていて、
「大人だって、自分の子供時代は、大人に説教されて、自分の子供には、そんな嫌な思いをさせたくない」
 と思っていたはずだと思ったのだ。
 実際に、そうだったのだろうが、大人になると、
「そんな思いをコロッと忘れてしまう」
 ということなのか、それとも、
「親になると、子供に対しての、しつけであったり、教育というものが、どうしても邪魔をする」
 ということで、子供の頃のことを忘れてはいないが、その分ジレンマとなって、いらだちを子供にぶつけるという、これも。
「余計な感情」
 というものが、
「歪な感情の変化」
 というものを生み出してしまっているのだろう。
 と考えるのであった。
 迫水は、そういう意味では、子供の頃からゲームをしていたわけではなかった。
「あんなに面倒くさいもの、何が楽しくて皆やっているんだ?」
 と思ったが、実際には、
「いつも親から説教される」
 ということで、
「親って、なんであんなに、かたくなにゲームを控えろっていうんだろうな。勉強の妨げになるって言いたいのかも知れないけど、気分転換だって必要だといっているだから、それがゲームで何が悪いんだろうな。もし、他の何かを気分転換に選んでいれば、ゲームのようにやめろっていうんだろうか?」
 というのだった。
 迫水は、親から、
「勉強の気分転換」
 を辞めろとは言われたことはなかった。
 そもそも、親から、
「辞めろ」
 と言われるようなことをした経験はなかったのだ。
 だから、親から言われるようなことをしていたのは、
「小学生の頃までだったかな?」
 と思っていたのだ。
 だから、中学に入ってからの自分は、
「優等生だ」
 という感覚があった。
 だから、この頃から、
「人に逆らう」
 ということをしなくなっていたのだが、それは、
「自分の本能のようなものからだ」
 ということに気づいていないのだ。
 それは、すべてが、無意識の行動ではあったが、あとになってから、
「事後納得」
 というものができたからだと思っている。
 そういう意味で、
「面倒くさがりでよかったな」
 という、これも、
「歪な考え方だった」
 といってもいいだろう。
 迫水の家庭環境、とくに、親は決して褒められた親ではなかった。
「どうせなら、隠しておきたい」
 と思うような親だった。
 迫水の親は、いつも喧嘩している親で、それも、お互いの浮気についての言い争いだった。
 なかなかお互いに喧嘩を辞める気配はないのだが、いつも、
「気が付いたら、終わっている」
 という感じで、
「疲れたから辞めたんだ」
作品名:永遠の循環 作家名:森本晃次