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永遠の循環

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 というものが、いかに、同一の影響を与えるのか?
 それが問題なのではないだろうか?
 日本語では、
「板挟み」
 と言われるもので、これを、サンドイッチのようなものだと考えると、この三つに距離感はなく、まるで、
「おしくらまんじゅう」
 のようなものではないということではないだろうか?
 ただし、本当のおしくらまんじゅうというのは、まったく違っていて、二人でやるものではない。定義としては、
「4人以上で、身体をすり合わせるようにして行うものだ」
 ということであった。
 だから、あくまでも、分かりやすいというか、イメージとしてのものだと解釈していただきたい。
 ただ、本当のジレンマという言葉を調べてみると、
「自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち,一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場」
 のことをいうのだという。
 イメージしていたものとは、実際の意味が違っているが、納得のいくものであり、ただ、違うイメージで考えられていたということから、
「いかに人間の感覚とは、曖昧なものなのか?」
 ということになるであろう。
「いじめっ子」
 と
「いじめられっ子:
 の間に挟まれるということで、
「いじめっ子に忖度した場合、いじめられっ子を無視したようになり、いじめられっ子を忖度すれば、いじめっ子から恨みを買う」
 どっちに歩み寄っても、自分の立場がよくなるわけではない。そうなると、
「どちらに歩み寄った方が被害が少ないか?」
 と考えるようになる、
「それが、ジレンマというものであり、その対処法ではないか?」
 ということになるのだろう。

                       狙う連中

 その関係を巧みに利用しようとしたが、失敗したという例として、イソップ寓話の中にある、
「卑怯なコウモリ」
 という話があり、まさにこのジレンマという言葉を具現化したような話ではないだろうか?
 というのは、このお話は、
「獣と、鳥が、戦をしているところに、コウモリが通りかかった」
 というところから始まり。鳥に遭遇すれば、鳥に向かって、
「自分は鳥だ」
 といい、獣に向かっては。
「自分は獣だ」
 といい、自分の肉体的な特徴を使って、逃げ回っていたという。
 しかし、いずれ、鳥と獣が和解し、お互いに話をしていると、コウモリの話題が出てきて、
「コウモリというのは、逃げ回ってばかりいて、卑怯なやつだ」
 ということで、コウモリは、
「暗く陰湿なは所にいることしかできず、しかも、行動は誰もいない夜行性になってしまった」
 ということである。
 つまり、
「逃げ回ってばかりいるのは、卑怯だ」
 ということの戒めを込めたお話だということである。
 ただ、よく考えてみると、ここでいわれるコウモリの行動というのは、
「糾弾されるべき話」
 なのだろうか?
 動物にだって、
「生きる権利」
 というものはある。
 しかも、
「鳥と獣の戦」
 というのは、コウモリにとってみれば、
「まったく関係のないものであり、迷惑千万だ」
 といってもいいのではないだろうか?
 しかも、
「自分は、鳥でも獣でもある」
 ということは、
「逆も真なり」
 ということで、
「自分は鳥でも獣でもない」
 といえるのではないだろうか。
 どちらでもない自分とすれば、中立であれば本当はよかったのだろうが、下手に肉体が、それぞれに似ていることで、それを理由に逃げ回っておりと思われたのだろう。
 しかし、これこそ、動物の本能のようなものであり、外敵や天敵から逃げるために、
「保護色」
 であったり、
「身体に棘」
 がついていたり、さらには、究極として、
「毒をまとっている」
 という動物もいるではないか。
「もって生まれた特徴が、自分を守ってくれる」
 というのが、
「その動物の特徴である」
 ということであれば、この時のコウモリは、
「自分を守った」
 ということで、卑怯どころか、
「褒められてしかるべき」
 ではないだろうか。
 しかも、戦を仕掛けるわけでもなく、誰も傷つけずに、実に平和に解決できる頭も持っているということで、
「えらい」
 と言われこそすれ、鳥や獣から、村八分にされる理由などないということだ。
 それを、あくまでも、
「卑怯だ」
 というのであれば、それこそ、
「鳥と獣は、自分たちだけが、この地域で生きていることができるんだ」
 という発想であり。この発想というのは、どこかで聞いたことがないだろうか?
 そう、
「民族主義における、単一民族の優位性」
 といってもいいだろう。
「自分たちの民族が一番偉いんだ。だから、それ以外の民族で、害になるものは、抹殺しないといけない」
 という発想から生まれた、
「ホロコースト」
 と呼ばれる、
「ナチスドイツのユダヤ人迫害」
 などがそうである。
 まさかと思うが、
「ヒトラーのホロコーストは、この卑怯なコウモリという発想を、正当化したものではなかっただろうか?」
 とも考えられる。
 これは恐ろしい発想であるが、
「それが人間の根本的な性格の一つだ」
 と考えると、人間には、必ず、
「仮想敵」
 というものを頭の中に抱いている。
 といってもいいかも知れない。
 戦争において、このような
「仮想敵」
 という発想を持っていないと、いつどこから攻め込まれるかも知れない。民族や隣国の中には、絶えず、
「どこかを侵略し、領土を増やす」
 という
「領土的野心」
 というものであったり、
「まわりに対する猜疑心から、防衛というものを、最優先にすることで、普段からの国防に対しての意識を高めるため、仮想敵を作ることで、その士気を最大に高めておく必要がある」
 というものであった。
 そんなことを考えると、猜疑心の強さから、
「いかに自分を守るか?」
 ということを、動物は、本能として持っているものだ。
 よく言われることとして、
「人間は、自分の欲望のために、人を殺す」
 と言われたりする。
 確かにその通りで、それは、動物の中で、
「人間だけが行うことだ」
 と言われるが、それも本当なのか、疑問というものだ。
 そもそも、
「人間以外の動物が、何を考えているのか?」
 ということが分かるわけはない。
 言葉にしても、
「同じ言葉を繰り返しているようにしか聞こえないので、それが、言葉なのかどうか、今ほど科学が発達していて、しかも、その研究をずっと続けている人にも分からない」
 ということである。
 これは、あくまでも、人間というものが、
「地球上の生物の中で、一番優秀で、高等な動物だ」
 という考えが基礎となっているからだろう。
 蓋を開けてみると、人間には、
「優秀なところ」
 というものもあれば、
「これほど残虐なものはない」
 と考えられるものもある。
 そんな人間を、
「地球上で一番の高等動物だ」
 ということにするのであれば、
「人間を最高にできない」
 ということであれば、
「他の動物と、人間よりも、さらに下等にする必要がある」
 ということで、
「そのどちらも比較しながら、その優劣をハッキリとせしめる」
作品名:永遠の循環 作家名:森本晃次