間違いだらけの犯罪
それは、本当にしていた音なのかどうかは関係なく、
「ただ、自分に都合のいい音が聞こえていたかどうか?」
ということだったのだ。
「都合よく聞こえたから、あんな光景が見えたのか?」
それとも、
「あんな光景が見えたから、自分に都合よく解釈するようになったのか?」
ということである。
そして、今の体調の悪さを官は得ると、
「後者ではないか?」
と考えるのだが、よく考えてみると、いつも、体調の悪い時だけ、異常な感覚になるということを考えると、
「前者であっても、不思議はない」
と感じるのだ。
それは、あくまでも、体調の悪さというものが、自分を都合よく導くための、手段と言えばいいのか、
「そこにたどり着くための、準備段階をたどっているのかも知れない」
と感じるのであった。
夏になると、頭がボーっとしてきて、特に、
「体調の悪い時というのは、都合よく考えるようになった」
と思っていた。
冬のように、意識が朦朧としないかわりに、身体が、敏感になってしまい。ちょっとした熱でも、まるで、
「まるで、40度近い熱があるかのように感じる」
ということで、
「意識が朦朧としなくても、高熱の時はあるのではないか?」
と思ったが、熱を測ると、ほとんど、熱はない。
そういう時の方が却ってきつかったりするものである。
さすがに、翌日になって、早朝はそうでもなかったが、いつもよりも早く目が覚めたことで、
「あれ? 何かおかしいな」
とは思ったは、熱が一気に上がらなかったことで、
「目が早く冷めたのは、体調とは関係ないのかな?」
と思っていたのだが、目が覚めてしまうと、昨日は感じなかった。
「頭がボーっとする」
という感覚があったのだ。
それは、夏風邪の時には珍しいものだったので、なんとなく嫌な予感というものがあったので、体温計を使って熱を測ってみた。
「げっ」
と、思わず叫んだのだが、体温が、39度を超えていたのだ。
それを見た時、一気に身体の力が抜けていき、身体から、生気が抜けてくる気がしたのだ。
要するに、熱が高くなってきたのを見た瞬間、
「我に返った」
ということなのだろうか?
「それまでがまるでウソだったような気がする」
と感じたほどで、頭がボーっとしていたのも、当たり前のことであった。
熱の高さを見て。さすがに、解熱剤を服用し、その影響か、眠気が襲ってきたので、
「それに任せて、眠ってしまおう」
と思った。
もちろん、会社には、
「今日の休み」
を願い出て、その了承はもらっていた。
解熱剤を飲むと、
「飲んだ」
ということで安心するのか、その安心感の表れが、
「睡魔」
というものであった。
頭がボーっとしているのは変わりないが、父子微視の痛さであったり、寒気などは、薬の影響委よって、感覚がマヒしてきたことで、
「だいぶ楽になってきた」
ということであった。
熱が下がれば、少し体調もいいのか、再度熱を測ると、とりあえず、38度以下になっていた。
それでも、まだ熱の高さは、予断を許さない感じだったので、少し様子をみると、昨日と打って変わって、今日は、食欲が出てこないのであった。
「これはさすがにきついか」
と感じたので、
「とりあえず、病院には行っておこう」
と思い、すぐそばにある内科に行ってみることにした。
歩いて、5分くらいのところで、その病院は、近くの住宅街の中にある、小さな
「個人病院」
という感じで、昔でいえば、
「町医者」
といってもいいようなところであった。
今までに、何度か行ったことがあったが、内科、外科、小児科ということで、それなりに揃っているところであった。
ただ、時間帯的にも、時期的にも、どうしても、子供が多かった。
「さすが、小児科」
と思えるところであり、以前に来た時も同じであったが、今回も、子供が多くて、閉口してしまいそうだ。
「体調が悪い時、一番子供が嫌だ」
と思っていた。
「とにかく、あのうるささは、たまったものではない」
と思っていたのだ。
前に来たのは、確か、半年前くらいだったかな?」
と思ったが、実際に行ってみると、
「久しぶり」
という感覚はなかったのだ。
病院の待合室で、雑誌を読んでいた時だった。隣の奥さんが、他の知り合いの奥さんを見つけたのか、急に立ち上がって、そっちの方に行ったのだった。
それを見た時、
「さっきまで、皆と同じように、表情が前と一緒だったのに、まったく変わってしまったことに気づいて、その表情は、まるで、
「地獄に仏」
という感じであった。
他の人と同じように、暗い雰囲気にいることを、たまらない思いで見ていたのだろう。
そもそも、こういう、まわりに合わせて暗い雰囲気になるのが嫌だったように思えるが、だからこそ、仲間を見つけて、有頂天になったのだろう。まわりの雰囲気を意識することなく、顔を近づけて、今度はまわりをキョロキョロしているのが分かると、その顔を見て、その友達と、今度は顔を見合わせた。
そのタイミングが、見事に一緒だったというのを感じると、
「私は、本当に、この雰囲気が嫌いなんだ」
ということを、いまさらながらに感じたのではないか?
と思うのだった。
よく見てみると、二人してまわりを見ているが、決して、同じ方向を向くということはなかった。
お互いに違うタイミングで同じところを見たということは、逆に、
「実にうまくタイミングを合わせている」
と言えなくもないだろう。
それだけ、息が合っていなければ、お互いに分かり合えるわけはないといってもいいだろう。
だから、逆に、この二人が、仲が悪くなろうとしても、何かの力がそれを押しとどめるかのように感じられ、見えているその雰囲気からは、
「二人の性格は似通っているのだろうが、決して、お互いが心を開くことがない」
ということではないかと感じられた。
一見仲がよさそうに見えるが、それは錯覚であり、かといって、仲が悪いわけではない。
タイミングが合っているので、仲良く見えるのだが、その実、
「合っていないところが、タイミング的に合っているように見えるだけなのだ」
と考えると、
「人と絡む時、相性と、タイミングのどちらが大切なのか?」
と考えると、
「実は、タイミングなのではないか?」
と思う。
それはなぜかというと、
「逆も真なり」
ということも含めて、タイミングが合う人は、まず、なかなかいないが、性格が合うという人は、結構たくさんいるだろう。
ということであった。
まるで、血液型のようではないか。
普通に考えれば、ABO型でいえば、4種類しかないが、
「移植手術」
などで、本当に必要な血液ということになると、そう簡単には見つからな。
ということと、同じではないだろうか?
確かに、血液型が同じ人でも、
「移植の際に適合する成分がどれだけあるか?」
ということである。
献血などの時、
「成分献血」
というものがあり、これは、
「必要な部分だけをもらって。あとは、体内に返す」